日本人が抱く江戸時代のイメージといえば、封建制の身分制にからめとられて、意外に暗いことも多いのではないだろうか。このステレオタイプの江戸イメージに、アメリカの日本研究者が揺さぶりをかける。そこから蘇ってくるのは、活き活きとした「西鶴ワールド」のカーニバル・・・。日本文化の真髄をめぐるレクチャー・シリーズの第1回です。
井原西鶴の俳諧から国際的なアヴァン・ギャルドまでを幅広く研究。主要な研究論文に「スペイン前衛詩人と俳句の受容」「西鶴と物語の転回」「日本研究におけるバフチン理論」など。神田外語大学におけるダートマス大学日本研修班ディレクターとして滞日中。
2002年度のキャンパスレクチャーシリーズ初回にあたる第22回講演会は、ジェフリー・ジョンソン氏を講師に迎えて行なわれた。 氏は博士課程在籍中に国際交流基金のフェローとして慶応大学に留学して近世日本文学を学び、ここ数年は当大学の夏季集中講座のためにも来日している。当日は発表・質疑応答とも日本語で行なわれた。
講演タイトルのように、氏の専門である井原西鶴(1643?93)は日本人に広く親しまれた江戸初期の浮世草子作家であり、また膨大な句を残した談林俳諧師としても知られる。浮世草子の代表作としては『好色一代男』(1682)、『好色五人女』(1686)、『日本永代蔵』(1688)、『世間胸算用』(1692)などが有名だが、中でも処女作『好色一代男』は当時の廓・町人文化などをよく反映した作品として、とりわけ多くの研究者に分析されている。従来の研究動向では、主にこの作品の(1)「俗源氏」、(2)「二重時間性」などの側面が注目されてきた。
(1)は、主人公の 町人・世之介と、遊女などおびただしい数の男女との愛欲生活だけでなく、至るとこ ろに散りばめられたモチーフや巻数(8巻54章)までもが『源氏物語』を模倣していることによる。西鶴の作品は全般に『源氏物語』『伊勢物語』などの古典や能・諺などからえた題材をもじって笑いを誘う傾向が強く、『好色一代男』でも一流の遊女達が豊かな教養知識をもちあわせるという既成概念に反した設定になっている。また(2)については、世之介の一代記を追う構成をとりながら、35才から37才までの時期がしばしば前後する事から、断続的に書きつながれるうちに整合性が損なわれたとみる説、意図的に回想録風に重複させたとする説などがある。
ジョンソン氏は上記(1)の流れの中でも特に「西鶴における笑い」(例えば、暉 峻康隆ほか1995『西鶴への招待』岩波書店、暉峻康隆2002『日本人の笑い』みすず書房、などを参照)を、西欧文芸理論を用いて再解釈を試みる。すなわち、ミハイル・バフチンの「カーニヴァルcarnival」性が『好色一代男』に様々なレベルでたちあらわれているというのだ。このカーニヴァルという概念は、まず字義通り謝肉祭の祝宴・乱痴気騒ぎ・巡業などの「日常性の転倒」、そして「グロテスク」「パロディ」などの諸要素からなる。
例えば、町人や遊女など徳川時代の身分階梯の最下層にあたる人々に焦点があてられ、またそのファッションが公家をも含めた世間一般でも模倣され流行となるなどは、完全に徳川時代のヒエラルキー構造を逆転させたものである。 元来は現世否定の仏教思想であった「浮世」が、ファッション・娯楽などを積極的に 享受する現世肯定の「浮世草子」という分野になった点でも、中世から近世にかけて の価値転換がみられる。
また、作品中に登場する猿回しや坊主などは、人々の目を欺 いて金銭を集めるトリックスターとしてパロディ化されている。さらに、世之介が交 わった二千人をこえる男女の数や赤裸々な性生活、完全に日常社会から逸脱した豪遊 ぶりなどは、壮大な妄想というグロテスクさそのものであろう。
この解釈に対してフロアからは、西鶴の笑いには揶揄や皮肉ばかりでなくヒューマ ニズムもあるのではないか、「浮世」には「不確かな、移ろいやすい」というニュア ンスもあり必ずしも語義の逆転ではないのではないか、日常社会からの脱出・解放と いってもヒエラルキーが常に悪とは限らないのではないか、などの質疑が相次いだ。
ジョンソン氏はこれらの見解を一部肯定しながらも、カーニヴァル性とは精神的抑圧 ・倦怠を解き放ち社会的秩序を保つために不可欠のものであり、幕藩体制の確立とと もに爛熟期へと向かう元禄文化の中で、つづく体制批判や贅沢への弾圧政策が開始さ れる直前の、まさにぎりぎりの時代の産物として西鶴の作品が位置付けられるのだと いう点をいま一度強調しつつまとめた。