拒食症やリストカットなど、自傷行為としか思えない形での若い女性たちが抱え込んだ、生命の危機におよぶメンタルな問題。そして彼女たちの「母」世代もまた、「自分探し」の模索の末のさまざまな「生きがたさ」を抱えこんでたたずんでいる。いまカウンセリングの場がそうした母・娘たちにとっての「もう一つの女性たちの居場所」になっているといわれる。自由や自立の条件を手にしえているはずの、現代社会を生きる若い女性たちが、なぜそのような危機のなかにあるのか。彼女たちの内面に何が起こっているのか? それは、フェミニズムの自立論やジェンダー・フリー、男女共同参画社会のメッセージのあり方と無関係といえるのだろうか。そのような疑問を、家族や親密圏の行方を問うことと重ね合わせて考えてみたい。母世代である私自身の女性としての内面の不安や生きがたさから目をそらさないで、現代社会を生きる女性問題(また背中あわせの男性問題)を見つめ、娘世代の皆さんの内面的問題と切り結んでいけることを期待して。
現在、横浜国立大学教育人間科学部教授、環境情報学府大学院兼担。専門分野は、倫理学、女性学、ジェンダー論。担当科目は、(学部)ジェンダーと社会、差別の構造、セクシズムとエイジズム、多元社会の現状、(大学院)博士課程前期・科学技術と倫理、博士課程後期・科学技術と倫理事例研究。研究課題は、ジェンダーパースペクティブからの「人間学」の構築、フェミニズムと倫理―世代間倫理・環境倫理・自己決定権、女性政策とケア倫理の新しい地平―福祉観の転換と新しい社会システム、親密圏と家族・母性のゆくえ、など。著書(単著)『転機に立つフェミニズム』毎日新聞社、1985年、『女性学の練習問題』明石書店、1991年、『ポストモダン・フェミニズム-差異と女性-』勁草書房、1989年、『フェミニズム問題の転換』勁草書房、1992年、『女性学の挑戦~家父長制・ジェンダー・身体性へ~』明石書店、1997年、『ワード・マップ家族』新曜社、1988年(編著)、『いま人間とは 人間観の再検討』慶応通信、1985年(共著)、『講座・学校3 変容する社会と学校』柏書房、1996年(共著)、『モラル・アポリア道徳のディレンマ』ナカニシヤ出版、1996年(共著)、『ワードマップ フェミニズム』親曜社、1998年(共編著)、『岩波新・哲学講義6・共に生きる』岩波書店、1998年(共著)、『21世紀の定義』3巻『欲望の時代』岩波書店、2000年(共著)、『フェミニズムの名著50』平凡社(共編著)2002年、『身体のエシィクス/ポリテイックス』ナカニシヤ出版2002年(共編著)『親密圏のポリティックス』ナカニシヤ出版2003(共著)、他。
ひきこもり、摂食障害、リストカット、家族内の虐待…現代社会のかかえる精神的問題は、俗に自傷ないし他傷行為といわれるさまざまな形の暴力として表出している。近年とみにメディアを騒がせているこれらの危機的状況は、どのような原因や過程を経ておこったのだろうか。
この問いとむきあう金井淑子氏が、上記の講演タイトルのように女性に焦点をあてて論じたのには、二つの理由がある。ひとつは女性問題に関する世界的イデオロギーの潮流、すなわちフェミニズムの自立論、ジェンダー・フリー、男女共同参画といったドラスティックな社会変化が、自由や自立を手にしたはずの若い女性たちに深い心のひずみももたらしているという事実のためである。もちろん、解消しきれない心身のストレスや精神的不安定さに苦しむのは女性に限ったことではない。だが女性の場合、精神形成に重要な家族関係において、母と娘という女性同士のつながりが、父と息子、ないし母と息子のそれよりも複雑であることが、最近の精神医学の進歩により明らかにされている。エディプス・コンプレックスを例にとるなら、息子は父親の存在によって母との関係を断念させられるが、娘は同性であるがゆえに母との関係性を容認されたまま成長してしまう、ということだ。こうした事実も、今回とくに母娘の関係をひとつの切り口として、それと背中あわせの男性問題をもふくめた現代人の「生きがたさ」を考える理由となっている。
社会人の内面の問題は、なぜ家族と関わっているのだろうか。それは「親密圏」と呼ばれる、いわゆる核家族内の人間関係が、家族の中に居場所をもつことで当人に自信をつけさせ、自尊感情を生み出すからである(斎藤純一『親密圏のポリティクス』ナカニシヤ出版も参照のこと)。ところが、この家族関係がくずれることで、自分の核になるものが欠落してひきこもりやうつ病に陥ったり、逆に対人関係において攻撃的になったりキレやすくなる。家でも学校でも常に競争を強いられ、意に染まないこともがんばりすぎるきらいのある子供たちはなおさらである。こうした精神的問題を抱えた子供がそのまま大人になったアダルト・チルドレン(AC)が、先のさまざまな自傷・他傷行為によって注目されているのだ。
そのもっとも典型的かついたましい事例として、1997年におきた「東電OL殺人事件」がある(佐野眞一『東電OL殺人事件』『東電OL症候群』新潮社など参照)。東電の総合職にあった女性が売春相手に絞殺されたこの事件には、キャリアー・ウーマンが男性優位社会で経験する苦労と、家庭内での両親の問題とがあいまって、被害者がおこした自傷行為と他傷行為の両方がみられる。自傷行為には自身の身体を直接傷つけるばかりでなく、摂食障害、アディクション(酒・タバコなどへの依存)、そして売春や援助交際などもふくまれる。被害者は、10年ものあいだ夜間だけの街娼を続けることによって、いつ殺されてもおかしくない破滅の道をつきすすみながら、同時に家族に自分の売春をにおわせることで傷つけ、虐待していたといえる(佐野眞一2003「『東電OL殺人事件』と現代の性」『KAN』12号参照)。
この事件は若い世代一般の問題のみでなく、母娘関係からくる深刻な葛藤をも反映している。ここでは被害者の女性のみでなく、生まれや学歴に対して自信過剰となり夫すなわち被害者の父をおとしめる一方、お嬢様育ちで家事をこなすこともできず娘にも教えられなかった母親もアダルト・チルドレンである。そもそも、この母娘がそれぞれ属する世代は、自己形成や社会的立場に関する経験も大きく異なっている。母の世代は男尊女卑観や家父長制がはびこる社会で、家庭内に閉じ込められて悶々とした時を過ごし、またそれだけに自立をかけて闘争してきた。しかし、その結果として娘の世代の方は、そうした矛盾や思考錯誤を経験した母親に育てられ、また常に自立の強要や女性性の否定にさらされて、当初の理想とされてきた「解放された女性」とは程遠い、悩み深い存在となったのである。そのことは、この殺人事件に共感をよせ、事件のあった地を詣でたりジャーナリストに長い手紙を書き送ったおびただしい女性たちが、大半は第一線で活躍するキャリアー・ウーマンや、幼児期に親から虐待を受けた人々であったという事実からも証明されている。
こうして、母が「今は男女差別のない世の中なのだから」とできなかったことを娘に託しながらも、セクシュアリティのレベルでは「女性として、人並みに結婚して子供も生まなければ」と自らの経験を強要し、母娘ともどもその矛盾にとまどいながら生きてゆかねばならない時代となった。かつての就職や参政といった社会参画から、趣味・教養、ボランティア・NGO活動・消費者運動、そしてトレーニングジムやエステ通いなど、自立をめざす女性の「自分探し」の方向性は時代にそって確実に変化している。しかし、それらの活動をもってしても、女性の、とくに若い世代の抱える不安やルサンチマンは未だ解消されていない。結局のところ、人間は常に自立しているわけではなく、また完全にセクシュアリティやジェンダーから切り離された存在でもないからだ。とすれば、フェミニズム運動が自明視した「自立」や「自己決定」といった価値観は改めて再検証される必要があるといえる。
これまでにも、個々人の心理や精神的問題は、近現代における家族・親族の変容との関係から論じられてきた。しかし最近の研究動向では、女性の社会進出にともなってフェミニズムや女性問題を視点にすえた分析もふえている(チェドロウ1978『母親業の再生産』新曜社、フリーダン1970『新しい女性の創造』大和書房、竹村和子(編)2003『”ポスト”フェミニズム』作品社など参照)。その意味で、金井氏の議論は興味深く、硬直したジェンダー論や女性解放運動に踏みとどまることなく、女性という「性」が抱えるリアリティを直視という営為に聴衆の共感が束ねられた。質疑応答時間にとどまらず、終演後も講師のもとにはたくさんの学生が集まり、真摯な面持ちで議論を続けていた。