近頃、日本にいながらにして、テレビ番組をはじめ、ドラマ・映画・音楽などとさまざまな場所で「韓国」を目にするようになった。また日韓交流事業の名のもとに韓国関連の行事が盛んに組まれ、より身近なものになっている。さらに、日本にいるだけではあきたらず、飛行機に乗ってスターに会いに行く女性たちも後を絶たない。韓国でも「韓流」にはいたらないものの「日流」がみられ、日本の大衆文化が着実に根づいているといわれる。一方、歴史教科書問題や竹島問題が世論を揺るがし、反日による両国間の交流中止も相次いでいる。この現状のなかで、交流はいかに進んでいくのだろうか。周辺地域の様子も紹介しながら自由に論じてみたい。
1992年、同志社大学文学部社会学科卒業。1997年、東京外国語大学大学院地域文化研究科博士前期課程修了。2001年、総合研究大学院大学文化科学研究科博士後期課程修了。主な著書に『韓国のある薬草商人のライフヒストリー』(御茶の水書房、2004年)などがある。専門分野は文化人類学。2003年より現職。
韓国でも2005年3月に、以前から議論の続いていた歴史教科諸問題や竹島問題がふたたび加熱した。激しい抗議行動に日韓関係は揺れ、進行中だった交流イベントが中止されたり、姉妹都市提携まで破棄されるといった事態が相次いだ。日本においてはこの数年空前の韓国ブーム、すなわち‘韓流’ ブームが続き、映画や音楽のみならず観光や語学方面でも韓国の人気が急上昇したといわれている。また、2005年は日韓国交正常化60周年目として両国政府とも交流事業に力を入れていた。にもかかわらず、なぜこのような展開になったのだろうか。シリーズ第2回は文化人類学者を講師に迎え、過剰で偏ったこれらの文化交流・国際交流のありかたを見直してみる。
高橋(1997: 29、31)によれば、‘交流’ とは個人や団体・地域社会・国家といった任意の2 者間にフィードバックの経路が確立され、それを通じて相互に依存しながら‘新たな存在’ を生み出し、この過程を繰り返しながら進化してゆくものだという。交流といえば、何でも一見明るく開かれ、平和をめざしているといった良い面ばかりが強調されがちだが、実際は問題点も多く、フィードバックがなければ本来の交流にはならない。その意味で、従来の日韓交流はまず植民地時代以来の支配や外交にはじまり、韓国の高度経済成長期には企業進出や労働力輸出、そして大衆レベルでは20世紀末からの日韓それぞれの文学・芸能ブームなど、総じてどちらかからどちらかへの一方向的外交や経済進出、文化輸出であることが多かった
講師は近年の日本における韓流ブームをとりあげて、その源流はいわゆる中国をはじめとしたアジアNIES諸国(シンガポール、香港、台湾など)の経済発展にともなう韓国文化の流行にあるという。これらの国々で1990年代後半から大ヒットした韓国の映画やドラマ、大衆音楽などが、徐々に日本にも広がっていったようだ。21 世紀にはいると映画“シュリ” や連続ドラマ“冬のソナタ” によって空前の韓流ブームが巻き起こされた。一方、韓国にも日本ほどではないが‘日流’ ブームがあり、特に村上春樹や吉本ばななといった日本の若手文学者の翻訳本や、若者のファッションや食文化(和菓子、たこ焼き、居酒屋など)、日本人モデルなどが人気を博している。90年代末まで韓国では日本文化禁止政策がとられ、録音物の違法販売やアンダーグラウンドの映画上映が行なわれていたが、98年から2004年にかけて徐々に日本文化が解禁されたこともブームに拍車をかけた。
しかし、これはあくまで文化の往来もしくは輸出入が自由に行なわれるようになったという段階であり、個人間、あるいは学校や研究機関、二国間政府の間に断続的なフィードバックをともなう‘交流’ が確立されるところまで達したとは言えない。だから竹島問題などが再燃した途端、日韓の自治体同士の交流や学校訪問といった企画までが中断されてしまったのだ。それはまた、たとえ芸能関係者や留学生などの間で交流が確立されているとしても、それをもって二国間の交流や外交関係も順調であると解釈することはできないということでもある。こうした交流のさまざまな側面ないし段階を把握しながら、異なる国家・社会間の個々人が相互理解を深める交流をめざすようになれば、現在の韓流・日流ブームも意義あるものとなるのではないだろうか。