私たちを乗せたまま“地すべり”のように日本が動き、世界が変わって行く。いま、私たちは、どこにいるのか? 対談するのは、ハンガリーに生まれ、ヨーロッパの一角から言語を通じて世界を見てきた言語学者と、幕末維新から150年の半分を近代日本の内側で生きてきた歴史研究者。2006年の日本、私たちの生きる“いま”“ここ”を照らす光源を、世界と歴史の開かれた時空に求めながら、ともに考えたい。
私たちを乗せたまま‘地すべり’のように日本が変動し、世界はめまぐるしく移ろい続ける。いま、私たちはどこにいるのか? ハンガリーという欧州周縁部から言語を通じて世界をみつめる言語学者と、幕末維新から21世紀にいたる150年の半分を日本で生きてきた歴史学者が講師となって、新たな年2006年に生きる私たちの‘いま’ ‘ここ’ はどこなのかを、自身の半生をふりかえりながら、また教育者としての立場から語ってくれた。
ヒダシ・ユディット氏はハンガリーのブダペストに生まれた。ハンガリーは四方からの異民族の侵略に脅かされてきた歴史をもち、言語はウラル・アルタイ系に属し、人々も‘ヨーロッパ人でありながらアジア意識’をもつ。そのような故郷の文化的多様性や欧州における周縁性を目のあたりにして育ったためか、小さな頃から言語に興味をいだいていたという。大学では言語学・コミュニケーション論を専攻し、1978年に当時の日本ではまだ珍しかったハンガリー人留学生として東海大学にも留学する。日本式風呂など慣れない生活に困惑する場面もあったが、ハンガリーと日本の言語構造や慣習に共通点が多いことには大いに関心を惹かれた。たとえば、ハンガリーでも日本と同様に人の名字は名前の前に来るし、住所の書き方も郵便番号以下、大きな行政区画から小さい方へと(県、町、通り、番地など)順に記入される。また、ハンガリー語文でも語順が日本語のそれとかなり似ているという。
こうしたことと直接関係するわけではないが、ハンガリーでは全般に日本語や日本文化に対する関心度が非常に高く、大学だけでなく高校から小学校までのレベルでも日本語教育が行なわれている。ヒダシ氏も1986年からブダペスト商科大学で教鞭をとるかたわら、日本など世界各地で客員教授や研究員として研究を重ねた。2001年より本学国際コミュニケーション学科教授に就任し、日本ハンガリー友好協会会長も務め、その功労を讃えて2005 年秋の叙勲では旭日中綬章が授与された。言語への情熱はますます深まる一方で、ハンガリーと日本の架け橋としてこれからも活動したいという。
一方、戦前の東京に生まれた山領健二氏は、子供の頃から特に何かになりたいと思っていたわけではなかったという。青春時代から大学にかけての時期が日本軍の植民地支配と第二次世界大戦と重なっていた氏にとって、当時のもっとも強烈な記憶は慢性的な物資不足による‘飢え’ の感覚であった。これは60代以上の日本人の大半にも共通する記憶だろう。“日録20世紀” (講談社)の100年前(1906年)、60年前(1946年)、50年前(1956年)などの記事一覧を比べてみても、ちょうど終戦にあたる1946年のおもな記載事項は、圧倒的に食糧不足や配給、闇市などに関するものが多い(1月)。しかし、その10年後の1956年には、もはやその影などなかったかのように急速な復興を遂げつつあり、冬季オリンピックや美空ひばりのコンサート、南極探検寄金運動などの記事が満載されている。
このような時代のなかで、氏は歴史学・近代日本思想史を専攻し、その後文化放送プロデューサーを経て私立麻布学園教諭となる。本学には創立時から参加、教授・附属図書館長を務めて2005年に退職した。
先述の奇跡的な戦後復興によって先進国となった日本で教鞭をとりながら、氏はあらためて日本とは何か、そしてそこに生きる日本人とは何かを、その源流さかのぼって考えてゆく。それと同時に、戦後の教育現場が経験してきた教科書問題、入試制度、学園紛争などの問題がおきざりにされている現状を指摘し、本来は個性ある生徒と教師が自由につくりあげてゆくことができる学校が、次第に閉ざされてゆく傾向にあることに対して警告を発してもいる(山領1996)。