医療分野でサイボーグ技術への期待が高まっている。人工内耳、人工網膜、脳深部刺激療法などによって、画期的な治療効果がもたらされている。日本が誇るロボットスーツも、いまは高価なものでも、やがて福祉現場や家庭に導入され、大活躍する日が来るだろう。サイボーグ医療、サイボーグ福祉の時代がやってきた。
これまで人間は、人間には心があり、機械とは違うと思ってきた。ところが、人間の脳にコンピュータを直結する技術がすでに実現し、脳がインターネットに直結する可能性が見えてきた。「攻殻機動隊」や「MATRIX」の世界はもはやSFではない。
サイボーグ技術は医療や福祉に福音をもたらすだけではなく、人間のありようを根底から変える可能性もはらんでいる。脳科学技術とロボット工学と情報通信技術の進化はわたしたちをどこへ連れて行くのであろうか?
静岡大学人文学部教授(人文社会科学研究科 臨床人間科学専攻)。1979年、東北大学大学院文学研究科倫理学専攻博士課程修了。1995年、文学博士(東北大学)。
1990-91年、ドイツ・テュービンゲン大学哲学部客員研究員。2001年、ボン大学「科学と倫理のための研究所」、ドイツ連邦文部科学省「生命諸科学における倫理のためのドイツ情報センター」客員教授。
主な著作に、『遺伝子技術の進展と人間の未来―ドイツ生命環境倫理学に学ぶ』、(監訳)『人間の尊厳と遺伝子情報―現代医療の法と倫理(上)』、『受精卵診断と生命政策の合意形成―現代医療の法と倫理(下)』、(共訳)『エンハンスメント―バイオテクノロジーによる人間改造と倫理』、(共編著)『薬剤師のモラルディレンマ』(2008年秋、南山堂より刊行予定。現在『薬局』南山堂に連載中)、などがある。
世界の先進諸国が次々と高齢化社会へ突入するにつれ、問題の山積する医療・介護分野ではサイボーグ技術への期待が高まっている。人工内耳、人工網膜、脳深部刺激療法などによって画期的な治療効果がもたらされ、一部はすでに保険も適用されるようになったため装用者は1990年代から急増している。この1、2年でメディアの話題となった筑波大学のロボットスーツ「HAL」や早稲田大学の人間型介助ロボットなども、今しばらくは高価だが、いずれ福祉現場や家庭に導入される日が来るといわれている。人間の脳にコンピュータを直結する技術がすでに実現し、脳がインターネットに直結する可能性もみえてきた今、アニメ『攻殻機動隊』やハリウッド映画『MATRIX』の世界はもはやSFではないのだ。
だが講師の松田氏は、サイボーグ技術は医療や福祉に福音をもたらすだけではなく、人間のありようを根底から変える可能性もはらんでいることを指摘する。脳科学がかつては人文科学や宗教の独断場であった「精神的な価値」の解明に迫ろうとしているからだ。例えば、深部脳刺激療法(DBS)は、うつ病などの精神疾患や麻薬などの中毒症状に対しても有効であるが、人格変容などをめぐる倫理問題について検討する必要がある。ひとまず現段階では、「非道具化」(身体や脳を他者が操作・コントロールすることの禁止)やプライバシーの保護、インフォームド・コンセントなど、2005年のEU科学と新技術の倫理に関するヨーロッパ審議会で提案された「人間の尊厳」原理に基づく6つの配慮項目がめやすとされている。
また、サイボーグ技術の「エンハンスメント(機能強化・技能向上)的」利用は治療にとどまらず、「より望ましい子供」や「不老の身体」、(人為的に調整された)「幸せな魂」などを追求したいという人間の欲求にどう対処するのかという問題にも直面する。さらに、こうした最先端技術の常として、米国などではサイボーグ技術の軍事利用なども試みられている。こうした技術が極まると、肉体が人為的にデザインされるだけでなく、記憶まで外部化されて一個人のアイデンティティを揺るがし、人間を人間たらしめている「心」とは何かという疑問にゆきつく。『攻殻機動隊』の主題であるGhost in the Shell(甲殻の中の幽霊)はその回答として生まれてきた概念であるという。
近年の遺伝子研究では、人間と霊長類の間に決定的な差異がほとんどなく、明確な境界を引くのが難しいことがわかっている。同様にして、再生医工学でも「人間らしさ」あるいは「人間性」の境界は今後ますます曖昧になり、人間/サイボーグ/機械の比較が重要な関心となるだろう。また、技術の発展につれて総合的な人格形成や他人への依存度が薄れ、機械への依存や身体のモノ化が高まるなど、人間社会そのものの変容も危惧されている。