本講演は、ことばをコミュニケーションの「道具」と考える場合に、私たちが「外国語」学習や外国人支援の現場で注意すべきこと、つまりこの「道具」の「使用上の注意」についてみなさんとともに考えることが目的です。そのためにまず、日常生活から外国語学習・外国人支援の場面までの広範にわたって見受けられる言語(および言語使用)の問題を取り上げ、言語や言語の使用に対する意識・態度・価値観がどのような問題を生じ得るのかについて考えます。その上で、「より平等なコミュニケーション」を実現させるための方策の一つとして、言語観教育の取り組みを紹介します。
大阪大学大学院博士後期課程修了、博士(言語文化学)。九州女子大学専任講師を経て、現職。専門は、言語文化教育学・社会言語学。主要業績に、『言語文化教育学の可能性を求めて』(編共著、三省堂、2002年)、『小学生に英語を教えるとは』(共著、めこん、2008年)、『外国人住民への言語サービス:自治体は多言語社会をどう迎えるか』(分担執筆、明石書店、2007年)、『国際結婚: 多言語化する家族とアイデンティティ』(共著、明石書店、2009年)など。
言語には伝達機能、認識機能、関係機能の3機能があるといわれるが、多国籍・多文化間のコミュニケーションでは、もっぱら伝達機能を最大公約数的に用いる方法、すなわち「道具としてのことば」の使用を実践する必要があり、またそうせざるをえない。例えば、アメリカでも日本でも多地域の方言や少数民族・外国人住民の言語が併存しており、日常会話や混成語の他、共通語としての標準語をメディアや教育の場で使う。さらに、近年は英米を規範としない世界的共通語としての国際英語を確立すべきだという議論もあるが、これは多文化状況で重視されるのが言語の「正しさ」(規範・標準)よりも「通じること」(公共性)だからである。
だが、日本の学校教育の現場では、日本語の母語話者と第二言語話者などが共有すべき日本語体系が未だ確立されておらず、小中学校の外国人児童生徒には学習上の理解や自己表現よりも、教材で使われる日本語の読み書きができるかどうかが判断基準とされてしまいがちである。また、日常生活に支障がない程度に日本語力を身につけた外国人も、例えば離婚・子供の親権争いの裁判など、難解な専門用語が必要になる場面では「日本能力が不十分」として不利益を被ることが多い
よって、不必要に難しい漢字熟語などを避け、平易な語彙・表現で日常生活や多文化交流を実践できるような新しい日本語体系の構築が必要となる。この「言語のユニバーサルデザイン」をもって、日本語母語話者とそれ以外の多様な市民が平等なコミュニケーションをはかり、各自の権利を保障されるような社会を実現しなければならない。