本講演の中心となった「翻訳」は、単にひとつの言語から別の言語に言葉を置き換えることを意味するものではない。それは、なじみ深いものの中で見知らぬものに出会うこと、ひとつの言語や文化の中に新しい場所を見つけることといった、より広い意味での翻訳である。よって翻訳とは、その過程で自己の思考回路を見直し、疑い、自己の中の溝に気づくといったことを含めた人間と言語との本質的な関わりを示す意義をもつ。本講演では、アメリカの哲学者スタンリー・カベルの思想から、言語との関わりの特質としての翻訳、自己と他者との関わり、さらには自己と世界・社会との関わりをも含める生き方の様態が示された。
講師の斉藤直子氏は、さまざまな分野において翻訳をつとめ、その異文化経験から教育が国境や世代を超えて生涯続いてくものであること、また哲学が相互学習の過程であり、異文化間の翻訳を通してそれが深められることを確信し、アメリカで教育哲学の道に足を踏み入れた。
講演は、斉藤氏がカベルの『センス・オブ・ウォールデン』を翻訳した経験と関連づけられて進行した。彼女はこの翻訳を行った際、カベルの言語の日本語訳が出現することで、もとの言語の意味や定義が揺らぎ、異なる言語と文化間の深淵に落ちてゆくような感覚に陥ったという。そして、こうした翻訳が完全に合致されるものではないという特質を「翻訳としての哲学」とし、カベルの哲学を通して解釈がなされた。さらに、この特質が国際人として他の文化を理解するための教育をも示すことが指摘された。つまり、人は翻訳不可能なものとの出会いの中で、自己の言語や文化との関わりのところまで晒され、揺さぶられることによって、新しい目覚めが経験される。それが文化間の限界を超える条件にもなりうるのだという。
質疑応答では翻訳に関してさまざまな質問が挙げられ、とくに文化翻訳の問題について多くの議論が交わされた。