本講演では、哲学者ジャック・デリダが創設した研究教育機関・国際哲学コレージュの軌跡から、大学という場、人文学を学ぶことの意味、そして根本的にものごとを考えるということについてさまざまな示唆がもたらされた。
講演会は、まず前半に国際哲学コレージュの記録映画「哲学への権利」が上映され、後半に講師である西山氏、そしてコメンテータおよびフロア参加者を交え、映画で取り上げられていた論点をめぐって討論が行われた。
西山氏によると、本学のような外国語大学にはどこか孤独で独り立ちした雰囲気の学生が多いという。語学の学習は、できないことに直面することの連続で、孤独な作業だと言える。しかし、こうした自身の無力さを感じる経験をし、克服していくことが語学を学ぶことのメリットであり、ひいては人生を生きていく中で重要な要素となるのだという。
西山氏からは映画と関連したトピックとして「大学とは何か」、「言語とX」という二つの論点が挙げられた。一つ目の論点について、近代の大学は制度化されたものであるが、一方で、無条件にやりたいことを自分で考え、突きつめることができる場所でもあるという。すなわち、大学とは条件の中で自分のやりたいことを無条件に創造できる場所であると言える。また、二つ目の「言語とX」は、映画の「哲学とX」を言語に置き換えたものである。つまり、言語を基礎としながらも、政治や経済、文化などに触れることで、世界観を広げていくことが重要なのだという。翻訳通訳の場合、言語で言語を問うことで、言語について新たな経験をすることになり、それが自身の言語をさらに豊かにしていくことにつながると言える。
コメンテータの豊田氏からは、国際哲学コレージュを野心的で余分な活動とし、そこにある人文学の未来はどのようなものであるか、またパンと水を得ている哲学者の世界は収入のない人びとの世界とはかけ離れているのではないかという問いが出された。
一方ファン氏からは、言語や言語学習が社会の変化によってその価値や位置づけも変わること、また英語圏の学問の最終段階がPh.D (Philosophiae Doctor) という形でみなされているが、実際は「哲学的なもの」という意味は含まれておらず、その手前の目に見える形式しか前提とされていないのではないかという指摘があった。
さらに司会の松井氏からは、哲学カフェのような場の必要性、問いに対する回答を得ること、キャンパスという場について質問が投げかけられた。西山氏は、哲学カフェのようなアマチュアから高度なプロまで存在することを認め、重視すべきはそれを連続性をもって捉えることだと主張した。また、哲学が根本を問うことであるなら、根本を問いながら目の前の問題の回答を求め、折り合いをつけることを学ぶのが大学であるとした。さらに大学という場は、そこを離れた後でも新しいことを学んだときに思い出すことのできる記憶の場所であると言及した。
フロアの学生からも多くの活発な質疑が行われ、講演会終了後の懇親会でさらに議論が深められたのではないだろうか。