神田外語大学グローバル・リベラルアーツ学部(以下、GLA学部)では3年次後期のニューヨーク州立大学(SUNY)留学が必修となっています。ジェンダーの問題に関心があり、GLA学部に入学した瀬戸山未羽さんはニューヨークシティに最も近いカレッジを留学先に選びました。コロナ禍真っ只中での入学、オンライン留学、そして1年次終わりに参加したリトアニアへの海外スタディ・ツアー。GLA学部で学んできたことをベースに、異文化と多様性に満ちた環境で学んだ瀬戸山さんのSUNY留学体験記を紹介します。
リトアニア研修が実施された令和4(2022)年2月は新型コロナウイルス感染症に変異種のオミクロン株が現れた時期だった。世間の「学生の海外研修は時期尚早」という雰囲気のなかで、葛藤を乗り越え参加を決めた瀬戸山さんは、リトアニアで歴史との向き合い方について深く考えさせられた。
最も印象に残ったのは第9要塞博物館のユダヤ人収容所跡だった。第2次世界大戦中のナチス占領下、リトアニアのユダヤ人を絶滅するために収容所として使われていた要塞跡である。瀬戸山さんにとって、ナチスドイツが数百万人に及ぶユダヤ人を虐殺したホロコースト時代の出来事は「あまり知りたくなかったし、知らなかったままにしてきた」史実。第9要塞博物館はまさにその現場だった。
「第9要塞は圧迫感というか、重圧的な感じがしました。『ここには入っちゃいけない』という気持ちが強くて。雨の日ですごく暗くて、とても重い雰囲気がある所で息の詰まる体験をしました。この場所で差別や拷問も行われていた。当時の写真も展示されていました。それを見て、この歴史は繰り返しちゃいけない、と強く感じました」
そして、帰国直後にウクライナ戦争が勃発した。隔離期間中だった瀬戸山さんはホテルのテレビで報道を見ながら「なぜ、あんなひどい歴史があったのに人は繰り返すのだろう」とひとり考え続けた。
意を決して参加したリトアニア研修で、瀬戸山さんは自身の価値観や世界観が変化したことを実感した。ジェンダーの問題についても、リトアニアでは生活に根差した改善が行われていることを知り、日々できることがあることに気付いた。学ぶことが多かった一方で、まだ自分が知らないことがたくさんあることを痛感したリトアニア研修を終え、瀬戸山さんは2年次の学びへと入っていった。
リトアニア研修が終わり、2年次になってからは自分の興味の範囲が広くなりました。ビッグデータに関するデジタル系の授業や日本文学の授業を履修しました。2年次の後期からはゼミでの専門的な学びが始まるし、3年次後期にはSUNYへの留学がある。リトアニアでは外国人と交流するうえで自分が知っておかないといけないことがあることを実感したので、今のうちに歴史や文学など日本特有のものを学んでおこうと思いました。
1年次までは「自分の興味はジェンダー!」と他の分野は切り捨てていたのですが、2年次で幅広い分野を学んでみると「面白いことは世の中にたくさんある」と感じて、楽しみながら学べました。リミッターを外し、自分の思い込みで敷いていたレールを取っ払って、新たな知識と出合うように努めました。
2年次の後期からはゼミが始まりました。フィールドワークを中心とした社会学です。先生の専門は沖縄ですが、私の興味を説明すると、若い子たちのジェンダー意識をテーマにしている研究者を紹介してくれて話を聞くことができました。違う分野に関心のあるGLAの学生たちと時間をかけて議論ができるゼミは濃密な時間でした。
SUNYへの留学先はパーチェス校(State University of New York at Purchase)です。7つのカレッジからパーチェス校を選んだ理由は、ニューヨークシティ(ニューヨーク市)へのアクセスがよく、アートの学びが一番盛んだったからです。
ジェンダーの問題をテーマに学んでいると、日本ではマイノリティーの情報を発言しづらいという現実にぶつかります。その問題をどう乗り越え、さらには私自身がどのように発信していくのか。そして将来は自分から情報発信ができるメディアの仕事も選択肢に入れたいと思っていました。
私は元々、モノを作ったり、絵を描いたり、文章を書くことが好きでした。でも、どこか「ここまではやってよくて、ここからはダメ」と勝手に線引きをするようになっていた自分がいました。その制限を取っ払いたいという思いが強くなり、他の国の人々がどんな表現をしているのかを知りたくてパーチェス校を選びました。
パーチェス校には、立派なダンススタジオや編集設備があり、アート専攻の学生が24時間使えるアトリエなど充実した設備が整っています。そういった環境を最大限活用して、私と同い年ぐらいの学生がすべてをプロデュースしてイベントを企画する。想像力を刺激される機会がたくさんありました。
そして、同じ年代の学生が「ここまでできるんだ」と思うぐらい自由に発言している。その自由のなかに相手へのリスペクトがある。尊敬がベースにあり、さまざまな議論と活動が成り立っていることに驚いたし、私もどんどん感化されていきました。
ジェンダーに関して言えば、パーチェス校がアートカレッジということもあって個性を大切にする意識が高く、男性として生まれたけれど女性のかわいい服装を楽しんでいる学生もいたし、キャンパスでデートする同性のカップルも日常的に見掛けました。大学のトイレは、男性用・女性用とは別に「オールジェンダー」もあり、きっと日本も多様性を認める社会が進んでいくとこうなっていくのだろうなと思いました。
多様性が高いからこそ、自分で確認して配慮すべきことがたくさんありました。例えばアフリカ系の子たちは髪の毛を触られることを好まないので編み上げている。仲が良くなっても「痩せたね」など体のことは言うべきではなく、「今日のセーターはかわいいね」など日本とは違う言葉の選び方や気遣いが必要だと学びました。
表現力を高め、ジェンダーについての学びを深めるというテーマで授業を選択し、とてもよい体験をしましたが、アメリカで学ぶ難しさも痛感しました。
まず、最初に履修を決めたのはジャーナリズムの授業でした。ジャーナリズムの基礎を学ぶ授業ですが、取り扱うトピックが「バイデン大統領の息子が起こした不祥事は何か?」など、アメリカの時事問題だったのです。私はアメリカ国内の政治や社会について分からないまま留学したので、毎回の授業で小テストがあるのですが、0点を3回連続で取ってしまいました。高校、そしてGLAの授業でもつまずいたことがなかったので、本当に人生初の挫折でしたね。
パーチェス校でGLAとの協定に尽力された先生が、私のことをとても気に掛けてくれていて、その方が「ジャーナリズムの授業を落として、他の授業を履修してはどうか」と提案してくれました。そこで、インターナショナル・スチューデントに対応するオフィスで、イベントや情報発信を行う「インターンシップ」と、海外に留学するアメリカ人学生のマインドセットを養う内容を学ぶ「グローバルスカラシップ」を履修しました。
自分の興味の中心にあったジェンダーに関する授業も取りました。英語による講義を聞くのは問題なかったのですが、一緒に授業を受けているアメリカ人の学生の英語は口語がメインなのでとても苦労しましたね。特に私の取った授業はレクチャー型ではなく、トピックを出されて、「あとは学生同士で議論してください」というスタイルがほとんどだったので、現地の学生との英語のコミュニケーションでかなりつまずいた感じを覚えました。
「イントロダクション・トゥ・ジェンダー&セクシャリティー」も手ごわい授業でした。20人ぐらいのクラスでしたが、3、4人のグループで議論をします。例えば、「体の発育に応じて、いつブラジャーを買ったか?」というテーマであれば、アメリカ人と日本人では体の発育のタイミングが違うし、「何年生」という学年のカウント方法も違う。いつ生理について学ぶか、学校には警察官がいたかなどについて議論しても、アメリカと日本ではまったく状況が違います。アメリカの教育のベーシックが分からないことに苦労しました。
このクラスの学生には留学生はいなくて、ほぼニューヨーク州で育ったアメリカ人の学生ばかりです。そういった共通の常識を持った学生のなかで日本人の私がポツンといる。「日本ではこうだった。日本は違う」とあまり言い過ぎても議論の妨げになってしまう。そこのバランスを見ながら議論に参加するのは本当に難しかったです。この環境で自分の立場を見つけ、意見を確立して発言すること。それがずっと課題としてありました。
ジャーナリズムの授業をはじめ、アメリカに来て、何も知らないことを見つめさせられました。逆に「帰れるまでに、これを達成しよう! 英語を流ちょうに話せるようになろう!」と極端に前向きになり、それが負荷になり不安定になってしまうこともありました。
見知らぬ土地で生産性の高さを維持するのはとても大変なことです。最初は「日本ではあんなにできていたのに、アメリカではなんで、こんなにできないんだ」と考えていました。でも、ある時、「自分は言葉もしゃべれない赤ん坊のような状態でここに来たんだ」と思うようにしました。そして、何かひとつでも頑張ったことがあれば、自分を褒めてあげた。とても楽しい経験をした一方で、留学で直面する困難もたくさん体験しました。
そんな不安定な日々の支えになったのがルームメートとの暮らしです。私の住んでいた寮は続き部屋になっていて、シングルが2部屋とツインが1部屋、リビングとキッチン、バスルームがありました。アメリカ人の学生ふたりとブラジルからの留学生と私という4人で和気あいあいと暮らすことができました。
週末の夜はみんなで映画を見たり、近くのアジアスーパーでお菓子を買い込んで、日本とアメリカのキャンディーを比較したり、とにかくポジティブで楽しい時間を過ごしていました。ブラジルの学生は、留学生としてすでに1年半アメリカで暮らしていて、苦労もしているので、私のことをとても支えてくれました。
他人と一緒にひとつ屋根の下で暮らす共同生活は今回が初めての体験でした。とても快適で、ルームメートにも恵まれていました。安心して帰れる安全な場所があったので、大学での学びに集中できたのだと思います。
アメリカに来たのは今回の留学が初めてでした。子どもの頃からシットコム(シチュエーションコメディ)など、アメリカのテレビ番組をよく見ていた世代だったので、「ごはんには巨大なピザを食べる」など、アメリカの生活スタイルの知識はありました。だから、アメリカに行っても日常の文化は自然と受け入れられましたが、ニューヨークシティ(以下、シティ)に関しては「こんな所が存在するんだ!」と驚きました。
これまでも観光旅行で海外の都市を訪れたことはありましたが、街と人がお互いに感化し合いながら生きていると感じたのはシティが初めてでした。この街で暮らす人々は街の一部になっていることを、誇りに思っている。個性的で感性豊かな人々がいることが街に影響を与えている。ある意味、二面性があって、数百年前の歴史的な建物のすぐそばに近代的な建物がある。そのコントラストがすごく面白いと思いました。
初めてシティを訪れたときは、スマホのマップで位置を確認しながら目的地に向かって歩いていました。ある日、シティに住んでいる友人のお姉さんと一緒に街を巡ったとき、マップを開かずに「あの人かっこいい!」「あのショップ、かわいい!」と気持ちの赴くままに歩きました。すると、自分の視線の移し方が変わり、街中にある小さな魅力にも気付くことができたのです。
シティには不思議と人を引き付ける魅力がありました。「ここに居たい!」「ここに行きたい!」と自然に思ってしまう。留学当初、「シティって、どうせ渋谷みたいな街でしょ」と思って、行くのを渋っていた時期がありましたが、シティの写真や映像を観ていただけでは分からなかったことでした。
パーチェスからシティまでは電車で約1時間。シティから1時間の距離の場所に住めたということだけでも留学の価値があったと思えるぐらいでした。私もニューヨークで生活していることに誇りを持ち、この街に見合う人になりたいと思いました。
ニューヨークは特別な場所であり、多くの人が憧れる街です。いろんな人が入ってくるので、それだけ多様性も高い。マイノリティーに対する理解も深まっていて、きっと人々が率先してマイノリティへの居場所をつくっていると思えました。それをリアルに見て、生活の中で感じることができたので、今後、日本が多様性を受け入れ始めたら、こういった社会に変わり始めるのだろうというシミュレーションができました。
日本は多様な文化を日常的に感じられる国ではありません。アメリカ、特にニューヨークとは対照的です。多様性の高いニューヨークで人と関わっていくなかで、その人の行動が個人の意識や性格によるものなのか、それともその人の文化的背景によるものなのか判断しかねる場面はありました。でも、文化もその人のアイデンティティーの一部だと認識できれば誤解をせずに済むと気付くこともできました。
ニューヨークで得たジェンダーや多様性についての知見を生かし、4年次で取り組むキャップストーンで新たな気付きを探っていきたいと思います。
パーチェス校で学んでみて、「留学するまでのGLAで学んだ2年半は、ここに来るための準備を蓄積してきたんだ」と実感しました。
授業でのディスカッションではたくさんの苦労がありました。でも、かなり早い段階から、さまざまな背景の違いを踏まえたうえで、「自分とアメリカ人は何が違うのか? 自分の立ち位置はどこにあるのか?」と本質的に考えられたのは、GLAで2年半をかけてみっちり学んでいたからだと思います。
2年半かけてSUNY留学に向けた心の準備がされてきたので、できるかぎり多くのことを吸収できる状態で留学に臨めました。4カ月という限られた時間での学習効果をいかに最大化するか。GLAのカリキュラムはそのために組まれていたものだと感じました。日本でできるだけの準備をしてきたから、アメリカで楽しめたことがたくさんあったのだと思います。
パーチェス校は私以外に日本人がほとんどいない環境でした。でも、神田外語大学にはたくさん外国人の先生方がいて、日常的に会話をしていたし、さまざまな国の言語も耳にしていました。それがなければ、きっとこの外国人だけの環境に怯(ひる)んでいたし、慣れるのにすごく時間がかかっていたと思います。
パーチェス校はアートカレッジなので、施設は充実しているし、建物も美しくて、すてきなキャンパスです。でも不思議と驚きませんでした。それは神田外語大学の学習施設も十分に素晴らしくて、海外の大学のような環境で学べていたからだと思います。
SUNY留学をしてみて、自分の英語力はそれほどではなかったと実感しました。生活はある程度できましたが、アメリカ人とのディスカッションなどコミュニケーションに困ったこともありました。
授業では、私より年齢が若く、高校を卒業したばかりの子たちと一緒のことが多かったのですが、しっかりとした主張があり、堂々と発言することに驚きました。もちろん、日本人としての視点や考え方には興味は持ってもらえるけれど、自分の意見をきちんと持って主張しなければ議論では発言の機会は回ってきません。そこをどう克服するかに時間を割いてしまったし、現実がはっきりと見えました。
でも、そういった挑戦も含めて、どんな環境でも生きていけるタフネスは身についたと思います。「できない部分も多かったけれど、意外とできることも多いじゃん」と思えました。とにかく驚くことが多いから、何が起きても大丈夫なように広い心でいよう。動揺せずに違うことを当たり前として受け入れよう。トラブルが起きてもきっと何とかなる。そんな気持ちで過ごしているうちに、すっかり度胸がついたと思います。
それとGLAに入ってからいつも感じていることですが、アメリカに来てもすごく人に恵まれていました。ルームメートたち、そして、協定校の担当の先生、留学生オフィスのスタッフの方々。カルチャーも言葉も超えて、守ってくれたり、協力してくれたりした人がいた。アメリカは放任主義というけれど、全然そんなことはなくて、本当に気に掛けて、いろんな機会を与えてくれた。ありがたかったし、アメリカ留学での困難を乗り越えられた要因だったと思います。
GLAからはたったひとりのパーチェス校への留学生で大変なこともあったけど、ひとりだから受けられた恩恵もありました。パーチェス校が初めてGLAから受け入れた留学生としてよいスタートを残せたと思います。
ニューヨークに留学する直前に高校時代の恩師に会いました。GLAへの入学する際にとてもお世話になったのですが、その先生に「とても良くなった。よかったね」と喜んでいただきました。高校時代の私を知っている先生から見ても大きな変化があったようです。
GLA、そしてニューヨークで学んで、よい意味で現実が見えてきました。ご託や理想ばかりを並べるような人ではなく、データなども見ながら現実的に見られる能力は高まってきたと思います。高校生の時は何も知らず、理想ばかりを並べていたのだなと思い返す場面が結構あります。
GLAを選んだことは正しかったと思えるし、この3年間でどんどん自信が持てるようになっています。GLAに入って、自分には何ができるか、どういう風に何を学ぶべきなのかを考えてきました。そして留学に行って、どんなにつらくても外部とのコミュニケーションを遮断せずに学び続けることの大切さを痛感した。学ぶことを止めたら、自分が朽ちていくのではないかと思うくらい学ぶことは大事だと思いました。
GLAという環境が私に与えた影響はとても大きいと思います。GLAの学生は一人ひとりが異なる視点を持って、問題に向き合う意思があり、実際に行動に移す人が本当に多くいます。そんなことができる大学生って多くないのに、GLAでは集団でみんなが影響し合う。とても特別だと思います。
GLAには、自分とは違う生き方をしていても、それを否定しないで、それを受け入れて、むしろ自分の糧として蓄えていく人たちがいる。先生方、大人たちも学生の主張を邪魔に思わず、一人ひとりと向き合う時間をつくってくれる。自分の意見を伝えられ、相手の主張を聞ける仲間がいるすごい環境です。GLAの環境があるからこそ、自分で行動に移せるようになったのだと思います。
ここに入ったことで自分が変わったとはっきりと分かります。その変化の過程を一緒に楽しんでくれる仲間や先生がいる。本当にありがたいと思いながら、日々の生活を送っています。
GLAで学び、2回の留学に行けた3年間で自分たちは激動する世界にいると感じる機会が多くありました。
令和4(2022)年2月、私たちがリトアニア研修から帰国した2日後にウクライナ戦争が始まりました。令和5(2023)年6月にGLAの3期生たちが海外スタディ・ツアーでエルサレムへ行った数ヶ月後の10月にハマスとイスラエルの紛争が始まった。その時、私たち1期生はニューヨークにいてイスラエルを支持するアメリカを目の当たりにしていました。シティに行けば、デモを見る機会がたくさんある。そして、アメリカからものすごい勢いで円安が進む日本経済を見ていました。
私たちはすごい時代を生きている。大学のカリキュラムで学ぶことを通じて、世界の情勢に触れられている。この風景を見続けられている。一般的な日本の大学生が知らなくてもいいことを自分たちでつかみ取りに行っていることを誇りに思うし、それができる環境にいることが本当にうれしい。入学以前に思い描いていた以上のことを得られていると思います。
もちろん、SUNYへ留学するなかで、「もう少しできたかもしれない」と思うこともあります。でも、自分のベストを尽くし、GLAでの2年半の集大成としての留学だったからこそ、「自分はもっとできる」という発見にもつながりました。SUNY留学で後悔したことは将来、よい方に生かしていけると確信しています。
卒業後の進路は確定したわけではありませんが、自分が発信する立場になりたい、そのために必要なスキルを身につけたいと思っています。アートやデザイン、ものづくり、空間づくりの仕事にも興味があります。
せっかくGLAで「学ぶ術(すべ)」を得たのに、得たものを発信する術を持っていないのはもったいない。シティを歩いていても、「紹介したい!」と思えるスポットにたくさん出会いました。文章、映像、空間、デザインなど何らかのメディアに携わって、形あるもの、形ないものをつくって発信する仕事を見つけられたらいいなと思います。
大きな空間でさまざまな価値を一斉に展示できるイベントも面白いと思っています。私はジェンダーに関心がありましたが、GLAの他の学生は貧困や教育など異なる分野に興味があり、互いに感化し合いながら学び合うことができました。社会に出た後、さまざまな要素や価値が出会い、感化し合う場をつくれればすてきですね。
そして、将来的には自分で何かができるようになりたい。海外も含めていろいろなところでも働いてみたい。そのための基礎づくりとして、仕事をしながらスキルやノウハウを身につけたいです。
GLAに入って自分の興味の外にあることに触れる機会がとても多くありました。これからも何かひとつに特化するというよりは、さまざまな業種に触れられるような分野に進んでいきたいと思います。
3年次の終わりが近づき、自分がまだ知らないことがたくさんあることを実感する機会が多くあります。それは、自分が学び続ける覚悟を持つきっかけにもなります。だから、いろいろな人に「もっと知らないといけないことがある」という気付きを得てほしい。自分が得た視点を少しでも多くの人に還元できる人間になりたいと思います。やはり、GLAで学んだことは私の考え方に大きく影響を与えていると改めて思います。
GLAでの3年間をかけて現実をたくさん見てきたので、大学4年間ではジェンダーの課題に仕事として取り組める術を習得できないと痛感しました。でも、いつかどんなかたちであれ、ジェンダーの課題を解決することに貢献したいと思います。もっと時間をかけて自分が向き合う姿勢を養わないといけないと感じています。
GLAで養ってきた問題を発見する力、原因を探っていく力は持ち続けていくだろうし、学び続ける姿勢もきっと私のなかにあると思います。いつか、ジェンダーの問題に直面する時が来るはずです。その時には、それまでの学びがきっと結び付くのだと思います。(了)
瀬戸山美羽さんのリトアニア留学体験記 https://www.kandagaigo.ac.jp/memorial/future/06/interview_06_3.html
神田外語大学グローバル・リベラルアーツ学部SUNY留学 https://www.kandagaigo.ac.jp/kuis/main/faculties/gla/gla_suny/