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医学部の教育では、医療系の出身者がコミュニケーションに専門を広げるケースは増えていますが、コミュニケーションの専門家が教えるケースはまだ多くありません。ですので、私にとっては医学部という組織は異文化であるし、医学部の先生方にとってもそれは同じだと思います。やっていることが、お互いにさっぱり分かりませんからね。
そんな状況で私が心がけているのは、「積極的な受け身」です。京都大学での最初の1、2年はすごく焦っていて、私の方から「こんな研究がやりたい」と言っていました。でも、医療や医学の世界では、信用がないと受け入れてもらえません。個人情報の管理が厳しいので、外部の人間は簡単に受け入れてもらえないのです。心がけたのは、相手から持ちかけられた仕事を積極的に引き受けること。そうすると、向こう側からドアが開いていくんです。とにかく種をまき続けています。そして、芽が出て、機が熟すと収穫する。その繰り返しですね。
異文化コミュニケーションは、医学や建築といった学問のように、病気を治したり、家を建てたりするような目に見える結果の出る学問ではありません。その点でのコンプレックスや拠り所のなさを感じることはあります。東日本大震災後は、福島県川内村での支援にも関わっているのですが、放射能の測定、除染といった直接的な復興支援と比べると、コミュニケーションはすごく無力だと思いました。この学問はあまり役に立たないのではと思うことは今でもあります。
でも、私が医療の世界をはじめ、さまざまな世界に入っていけたのは、コミュニケーション学に「水のようなフレキシビリティー」があったからだと思います。誰でもコミュニケーションと言えば、何かイメージが湧きます。誰でも知っていて、コミュニケーションは大切なことだという認識はありますからね。
私は学問とは地図を獲得するようなものと考えています。地図は自分が進みたいと思っている地形の起伏や形状を教えてくれます。いつ終わるか分からない旅のプロセスの予測も立てやすくしてくれます。しかし、地図そのものは目的地もルートも示してくれません。最短距離を目指してもよいし、目を引く景色に出合って回り道をするのも自由です。大切なのは学問という地図、つまりツールを使って、自分自身の研究をデザインすることなのです。(8/9)