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昭和63(1988)年4月、私は神田外語大学の第2期生として入学しました。学び始めてみると、大学では異文化コミュニケーションの授業が充実していました。久米昭元先生、石井敏先生、荒木晶子先生といった現在も学界で活躍されている方々が講義を担当されていました。高校時代は異文化コミュニケーションについては知りませんでしたが、講義を受けるうちに関心が湧いてきました。
私が大学に入った1980年代の終わりは、日本がバブル景気に浮かれていた時期でした。国内はとても景気がよいけれど、アメリカをはじめ海外では激しいジャパンバッシングが起きている。どうして日本のやり方は海外ではそんなにうまくいかないんだろう、と疑問に思っていました。少し前までは、アメリカのよき弟分のように言われていたのが、急にライバルになり、商売敵のように言われている。それと、湾岸戦争も在学中に起きたので、宗教間の摩擦も極限までいくと戦争になってしまうんだと感じていました。
異文化コミュニケーションの講義では、そういったニュースを題材に取り上げることが多く、外国との関係について考える機会が多かったですね。「時事英語」でも、朝日新聞で記者をしていた方が講師をされていて、授業では新聞記事が教材として使われていました。記事の内容もジャパンバッシングなど時事的なことが多かったように記憶しています。そういった講義を通じて、異文化コミュニケーションへの関心が強くなっていったような気がしますね。
異文化コミュニケーションの講義は20人から30人ほどの少人数制でした。久米先生の講義ではビデオを題材として取り上げることがありました。『青い目、茶色い目』というドキュメンタリーが印象に残っています。目の色の違いという本当に小さな違いが原因でクラスが敵対してしまうという内容です。
帰国子女についてのドラマもありました。海外から帰ってきた男子生徒がクラスにうまく溶け込めずに、いじめの対象になってしまうというものです。とてもリアルなドラマで、見終わったときに久米先生が涙ぐんでいたのを覚えています。久米先生はとても涙もろい先生でしたね。(2/9)