神田外語グループのいしずえを築いてきた人々

第1回 佐野隆治会長『学院が誕生するまでの日々』

みんな栄養失調になって腹が出ていた。
野山に行って、口に入るものは何でも食べた。

小学校に入る頃、戦争が始まった。(※3)その頃、萱場(かやば)製作所という飛行機の機械装置などを作る会社がありました。(※4)いわゆる軍需工場です。親父は、そこの下請けで部品を作る仕事をしていました。自分で工場を立ち上げてね。足立区の西新井に工場がありました。

小学校4年になると集団疎開に行きました。福島県の会津高田という所です。4年の秋に行って、5年の夏に終戦を迎えて、その後の秋に帰ってきたからちょうど1年間ですよね。伊佐須神社という大きな神社があって、お参りする人たちのための旅館が何軒かあった。そこに分かれて泊まっていました。

旅館から地元の学校に通った。でも通ったのは着いてから1カ月ぐらいでした。先生が徴兵されてしまって。先生がいないからすることないんですよ。朝飯食べたら遊んでいるほかない。

秋に行って、ちゃんとご飯が食べられたのは1カ月くらい。そのうちイモが出るようになって、それでも冬を越して4月、5月までは食べられたかな。その後は本当に食べるものがなくて、豆のカスを食べていました。軍が油を取るために大豆を潰して、そのカスを煮て食べていました。あれはひどかった。食べられるもんじゃない。みんな栄養失調になって腹が出ていた。

だから野山に行って、口に入るものは何でも食べた。覚えているのはお蚕さんの桑の実。それが結構甘くておいしくてね。ただ食べると口のまわりが紫色になるから、すぐにばれる。

小学校5年の8月に終戦を迎えて、東京に帰ったのは10月ぐらいだったかな。翌年の4月ぐらいまで学校が始まらなかったような気がします。戦後すぐだから、先生だってすぐには軍隊から帰って来られなかったのでしょう。(2/6)

  1. 昭和16(1945)年12月8日真珠湾攻撃が行われ太平洋戦争が勃発。
  2. 現在の株式会社カヤバ工業(通称KYB)。戦中はオートジャイロなどを設計・製造していた。
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写真撮影:塩澤秀樹
取材・文:山口剛

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