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50th Anniversary -Interviews-
戦時中、親父やおふくろは上野にいました。その時、米軍が上陸するって話があった。親父は日本刀、おふくろは短刀を持って、攻めて来たら戦って死のうと腹を決めていた。ある時期まで刀は残っていましたよ。親父は軍需産業に携わるぐらいだから、日本という国家を大切に想っていたはずです。
そして敗戦になった。そのときに感じたのでしょね、武力ではどうにもならないと。そこで感じたことが、『言葉は世界をつなぐ平和の礎』という考えの原型になっていったようです。外国人と話し合いができないようであれば、平和なんてないと。親父にとって敗戦は大きな出来事だったと想いますよ。
話は前後しますが、親父は終戦後すぐの選挙に出馬したと聞いています。大野伴睦(おおのばんぼく)という代議士に誘われて2度ほど出たけれど、どちらも落選だったようです。(※5)小学校5、6年生の子ども相手に詳しい事情を話す親もいませんから、本当のところは分かりませんが、日本という国に対して、何かしなければならないという強い気持ちがあったことは確かでしょうね。
戦争が終わると飛行機の部品を作るわけにはいかない。ただ、工場に鉄の材料が色々と残っているわけじゃないですか。焼け跡を片付けて、土をならすには何が必要か。親父はショベルやスコップ、クワやスキを作って売り出したんですよ。
上野の上車坂には「佐野商店」という店も構えていた。上野の駅舎を出て、浅草へと向かうまっすぐな道がある。それをちょっと曲がったところ。東京大空襲で浅草のあたりは全滅だったけど、上野駅の回り、ほんの一部が焼けなかったんですよ。上車坂、下車坂、そして車坂の一部。上野の山に高射砲の陣地がありましてね。ドンドン撃つんで、米軍機も危ないから避けたんでしょう。うちも焼け残ったからすぐに店を始められた。
クワやスキはよく売れた。だって必要なんだから。でも、長いことはやっていない。次は、鍋や釜です。焼け跡を片付けて、少し落ち着く。すると今度は鍋や釜が必要になる。これもよく売れた。店員も十数人に増えました。みんな若い人は住み込みで、うちの2階に住んでいた。都内の人でも家を焼かれていたからね。みんな鍋釜を背負って売りに行っていました。その次はライターです。国産のライターを作っていました。(3/6)