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50th Anniversary -Interviews-
「日本の文化を理解したうえで、相手の国の文化も理解し、そして自分の意見を伝えられる若者を創りたい」。佐野学園では昭和50年代初め、佐野隆治会長の強い想いによって大学設置の準備を開始しました。開学した神田外語大学が、来るべきグローバリゼーションの時代に先駆けて「異文化コミュニケーション」をコンセプトにできたのは、古田暁名誉教授との出会いが大きく関係していました。古田教授と神田外語の物語は、20世紀という激動の時代の幕開けとともに始まります。(構成・文:山口剛/文中敬称略)
古田暁の父、古田純三は明治33(1900)年に北海道の夕張に生まれた。純三は海外への憧れが強く、兄とともにヨーロッパに密航したという逸話も残っている。純三の父、喜代二は書籍商であり、また敬虔なキリスト教徒であった。純三も自然とキリスト教の信徒になり、日本から外国への移住を支援するプロテスタント系のキリスト教団体「日本力行会(にほんりっこうかい)」で学ぶようになる(※1)。純三も20歳ぐらいになるとアメリカの西海岸へ渡り、日本からの移民受入れに心血を注ぎ始めた。大正9(1920)年ごろのことである。
当時、海外への移民は日本にとって国家レベルの課題でもあった。江戸幕府の終焉とともに世界へと門戸を開いた日本は殖産興業をスローガンに掲げ、近代的な国家へと変貌を遂げようとしていた。人々の暮らしも変化し、衛生面が改善されると、乳児死亡率が低下し、人口が急増していった。だが、国土は限られている。農村部を地主制が支配していた時代、若者は自分の土地を持ち、作物を育てることを夢見て、北米や中南米、満州国へ渡っていった。
純三が10年にも及ぶ北米での移住支援活動を終えた後に記した著書『移住と宗教』を読むと彼のふたつの面が浮かび上がってくる。まず純三には、神がこの世界を全人類のために創ったのであれば、人々が国境を越えて移住できるはずであり、国際的で社会主義的な社会こそ理想である、という信念があった。彼はその信念に基づいて、10年にわたりアメリカで暮らしながら、情熱を持って日本人の移住活動を支援した。もうひとつは、彼がグローバルな視点を持っていたことだ。国際情勢、経済学や人口論、学者たちの発言、受入国の政策と社会背景、そして移民の精神性など多岐に渡る事象を学び、冷静に状況を分析していた。情熱と客観。行動と研究。そのふたつの能力を合わせ持つ純三の個性は、息子である古田暁に引き継がれることになる。(1/15)