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1970年代、東京には急成長を遂げる英語専門学校があった。神田外語学院である。昭和32(1957)年に「セントラル英会話学校」として開業し、英語を母国語とする外国人教員の充実と、商社や航空会社で働くための実務を教えるカリキュラムが評価され、日本最大の英語専門学校に成長していた。だが、神田外語学院では、2年間のカリキュラムには限界があり、外国人と対等に交渉を行い、ともに事業を作り上げる人材を育成するには、外国語や実務の能力だけでなく、日本と外国の文化に精通した教養を学ぶ大学が必要だと痛感していたのである。
神田外語学院を運営する学校法人佐野学園では、昭和52(1977)年から大学設立の構想を練り始め、昭和57(1982)年には大学設置準備室を開設した。準備室ではその後、新大学の教育の特色として異文化コミュニケーションを柱とすることを打ち出し、昭和62(1987)年に神田外語大学を開学。アメリカと日本の両国で、異文化コミュニケーションの高等教育機関がほぼ同時期に萌芽し始めたのは、背景こそ異なるが、世界的な必然性があったからと言えるだろう。
フォンティンは、ハワイ大学で教える一方で、ビジネスパーソンや企業経営者など異文化での仕事や国際的な活動に従事する人々を対象に、異文化コミュニケーションの研修やトレーニングを実践し続けた。その一方で、彼は異文化コミュニケーションに関する研究者のネットワークでの活動にも力を入れた。歴史の浅い分野だからこそ、研究者が集まり、互いに学び合いながら、研究での発見や教育・研修での実践について共有する必要があると考えたのである。彼は、異文化コミュニケーション学会(The Society for Intercultural Education, Training and Research: SITER)や関連する組織を主な舞台としながら、研究や実践の内容を共有する活動を行った。SITERは、異文化コミュニケーションに関する調査研究を行い、その知見を実社会で生じる課題の解決に応用する研究者たちの国際的なネットワークである。
教育、研究、実践を網羅しながら、得られた知見を循環させようとするフォンティンの試みは、佐野学園が構築してきた事業内容に通じるものがある。まず、教育機関としての神田外語学院や神田外語大学がある。大学に附属する研究所では、異文化コミュニケーションや日本文化、言語教育に関する研究を行ってきた。そして、中世イギリスの村を再現し、異文化環境で外国語によるコミュニケーション力を高める場を提供する国際研修施設「ブリティッシュヒルズ」も設立。異文化理解の知見を実社会において活用するための機関としては、社会人向けの研修を行う「神田外語キャリアカレッジ」、大学での児童英語教育に関する研究成果を生かして講師を育成する「神田外語キッズクラブ」、異文化理解の能力を持つ人材の派遣業務を手がける「神田外語アソシエイツ」を整えた。
フォンティンや彼の同僚たち、そして神田外語グループの共通点は、教育、研究、実践の各分野を網羅し、得られた知見を循環させようと取り組んできたことだった。それは、異文化コミュニケーションという新たな領域を社会に広め、必要とする人々にスキルを提供し、学問としての発展を図っていくための必然だったと言える。(2/4)