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50th Anniversary -Interviews-
開学の翌年、昭和63(1988)年から神田外語大学に勤め始めました。英米語学科の教授です。神田にはタレントのある先生方が集まっていましたね。一般教養では古田暁先生が高い見識を持って優秀な先生方を集めていた。それはすごい勢力でした。英米語学科は先生はたくさんいるけど、とてもおとなしい方ばかり。韓国語学科は小さいけれど濱中昇先生をはじめ筋の通った先生が多い。そして、中国語学科には、体当たりで意見を言ってくる先生も多かった。小川先生はしんどかったでしょうけど、よくまとめておられたと思いますね。
気がかりだったのは小川先生のお体です。私は開学前から神田外語大学で働くことが決まっていたので、初めての入学式にも招かれました。小川先生は、その時から、お腹に水が溜まってしまっていたようで、「妻とふたりでモーニングのズボンを引っ張って、引っ張って、やっと入ったよ」って冗談のように言っておられたのを覚えています。
病気が悪化してからも大学にはいらっしゃっていました。さすがに電車では通えないから大学がハイヤーを用意していました。ただ、成城のご自宅から幕張まで自動車で通うのも辛かったと思いますよ。大学に来られないときは、永年秘書を務めてこられた宮森さんという方が小川先生のご意見を聞いて、現場で指令を出していました。あの人はよくやりましたね。(※1)
平成2(1990)年7月、小川先生がお亡くなりになりました。
慈恵医大に入院されていたとき、小川先生から会いたいと連絡がありました。面会に行ってみると「井上さん、頼む、頼む」っておっしゃるんです。そのときは、何を頼まれているのか、分かりませんでした。お腹に水がたまってしまうというので、私は「先生、大丈夫ですよ。水を採ればよくなりますよ」って励ましました。けれど先生は「いくら採っても次から次へとたまってしまうんだ」と、どこか冷静で、そして諦めていらっしゃったようです。
病室で小川先生に「頼む」と言われました。私は、神田外語大学に就職した後、小川先生が兼任されていた英語学科長の役職を引き受けていました。だから、私はそれを「頼まれた」と思っていたんです。でも、小川先生が学長在職のまま亡くなると、当時理事長だった佐野隆治会長から、学長を引き受けてほしいと言われました。そのときに、「ああ、小川先生が理事長にそうおっしゃったんだ」と直感的に思いました。
最初はお断りしました。学長は出来ないって。家族も友達も反対しました。中国語学科の先生方をまとめるのはしんどいし、何しろ研究ができなくなってしまう不安があったからです。
ただ、ひとつ魅力的だったのは、当時、神田には言語学研究の大学院構想がありました。大学はいい学部を持っていても、大学院がきちんとして、専門家を輩出していなければ一人前ではありません。ただ大学院は、学生数は少ないけれど一定の教員数を満たさなければならない。経営的にはマイナスです。それでも佐野会長は理事長として、大学院で勝負しなければいけないとお考えになっていたようです。大学院の整備をさせていただく、それが学長を引き受けた大きな要因でした。(2/5)