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50th Anniversary -Interviews-
昭和62(1987)年、千葉・幕張に神田外語大学が開学しました。初代学長は英語教育界の重鎮、小川芳男先生。しかし、小川先生は平成2(1990)年7月に学長在職のまま逝去されました。第2代学長に抜擢されたのは英米語学科教授の井上和子先生でした。著名な言語学研究者である井上先生は、なぜ神田外語大学で教え、学長をお引きうけになったのでしょうか?今も大学院で指導を続ける井上先生に当時のエピソードについてお聞きしました。
昭和60(1985)年3月、私は22年間勤めた国際基督教大学(ICU)を定年退職しました。翌年度からは、母校である津田塾大学の教授となり、言語学研究所の所長として、大学院で教えることになっていました。
ICUからの退職が決まったとき、いくつかの私立大学から声をかけていただきました。でも、大学で教えるのはもういいかなって、終わりにしようと思ってたんです。津田塾はある事情があって、私が行かなければ英文科のポストが他の学部に移されてしまう。だから行かざるをえませんでした。
津田塾に行くことが決まったのと同時ぐらいに、神田外語大学の設立の準備をしていた小池生夫先生から教授職へのお誘いがありました。初代学長である小川芳男先生が推薦してくださったようです。学会などで精力的に活躍されていた小川先生とはずいぶんと以前からおつきあいがありました。津田塾の先輩が小川先生の一番弟子の方とご結婚されていたことや、先生が勲章を受章されたときにはお祝いの会を企画したりと、個人的なご縁もありました。
小川先生は、言語学も英語学もできる優秀な方でしたが、知識をひけらかすようなことは一切ありませんでしたね。徹底的に英語の先生でした。日本語教育にも力を入れておられ、海外への教育視察の団長もされていました。穏やかだけれど、言うべきことはきちっと言う。素晴らしい人格者でしたね。
小川先生はこんな言葉で誘ってくれました。「井上さん、神田外語大学は過去を踏襲するのではなく、新しい試みをする可能性のあるところです」それはちょっと面白そうだなって。津田塾には少なくとも3年間勤める約束をしていたので、神田では開学の翌年から教えることにしました。小川先生の考えてらっしゃった神田外語の将来というものに、可能性を感じたんです。小川先生のことだからきっと芯のある語学教育をするだろうと。だから新しい大学で教える不安より、楽しみの方が強かったと記憶しています。
佐野隆治会長(当時は事務長)にお会いしたのもその頃です。会長もずいぶんと小川先生を頼りにされていましたよ。小川先生もその思いに応えたいという気持ちがあった。佐野会長は最初にお会いしたとき、ご自分の教育理念についてのスタンスについてはあまりお話をされず、私の話をずっと聞いてくださいました。そしてただ、「やりたいことを自由にやってみてください」と言ってくださいました。(1/5)