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50th Anniversary -Interviews-
昭和51(1976)年、神田外語学院は文部省から専修学校として、正式に認定を受けました。学院の生徒は増える一方でした。その頃は、40クラスぐらいあって、生徒数も2000人ぐらいいましたね。教員も200人近く必要でした。私は、春と秋に英国とアメリカに行って、教員の面接を行いました。何しろ応募者の数がすごかった。やはり外国に行けるチャンスだから。若い人たちにしてみれば、日本に来ることは冒険ですからね。
何年か採用を続けていると、どんな先生を選べばいいかも分かるようになってきました。学歴だけじゃないんです。大切なのは、日本の社会、そして文化に適応できるかなのです。それと、年齢を問わず、頑固な人は外しましたね。外国人に言葉を教えるにはフレキシビリティが必要ですよ。
こういった採用活動を始める前の神田外語学院では、採用の方針に「軸」がなかったように思えます。日本国内で募集して、日本にいる外国人を雇う。それも日本人が日本人の感覚で採用する。だから、うまくいかないことも多々あったのです。幸い、私は英国と日本の両方の文化を理解しています。だから、外国人の応募者が日本に合うかどうかが分かったんですね。どんなに優れた資格を持っていても、日本の文化に溶け込めないだろうと判断したときは、採用しませんでした。
1970年代、東京には数えきれないほどの英語学校がありました。ただ、神田外語は他の学校とはっきりとした違いがありました。まず、第二外国語としての英語を教える資格を持っている人しか雇わない。教員の質を一定以上、保つということです。雇用の契約がはっきりしている。給料はどこよりも高い。大学の教員よりも神田のほうが高いぐらいでした。そして、カリキュラムでは職業に役立つ英語教育を目指していました。専門学校というのは、職業を得るための学校だから、明日からでも役立つスキルを身につけさせてあげなければならない、という方針でした。
私自身の生活にも変化がありました。ミシガン大学に教員の面接に行ったとき、日本から留学して英語教育を学んでいる女性たちがいました。そのうちのひとりを神田で採用したのですが、私はその女性と結婚しました。それまでは自由な生活を謳歌していましたが、結婚するのであれば、本腰を入れて仕事をしようと思ったんです。自分のなかで、神田外語学院を、外国語を教える日本一の学校にしようと決めました。
昭和53(1978)年、佐野公一理事長が亡くなりました。佐野きく枝先生から、葬儀委員長をやってくれないかと頼まれました。葬儀を仕切る役ですね。日本の葬式でそんなことをやったこともなかったですが、助手をつけると言われて引き受けました。
葬儀が終わると、きく枝先生と佐野隆治会長から呼ばれました。きく枝先生はこう言いました。
「先生、佐野学園の職員になってくれませんか。学院の教育についてはあなたにお任せします。経営については隆治がやります。この学校を語学学校として認められるレベルに引き上げてほしい。必要なものはすべて用意するから」
私は海外で教員の採用を担当しながらも、立場は講師のままだったんです。自分に学院の教育を任せてくれる。勉強が必要であれば好きなだけしていいとも言われました。きく枝先生の、その言葉を受けて、私は神田外語学院の職員になることを承諾しました。
きく枝先生は、私が臨時講師をしていた時代も、何かあると意見を求めてくれました。私が他の先生よりも年齢が高く、そして日本と英国の両方の文化を理解していたからでしょう。私は学校経営の専門家ではありません。でも、日本人と外国人の間で、何ができて、何ができないかを感覚的に理解していました。私が自分の意見を言うと、きく枝先生はとても素直に聞いてくれましたね。
きく枝先生には夢があった。日本の女性を世界レベルで通じるものにしたいという夢がね。外国人と対等に向かい合える能力を身につけさせたい。でも、日本人女性としての立ち振る舞いは失ってはいけない、という信念を持っていました。私はその考え方に大いに賛同しましたね。きく枝先生は、佐野学園の理事長、そして神田外語学院の学院長となり、学院での教育を私に任せながら、ご自分では日本の女性のマナーについての指導を積極的にされていました。(5/9)