神田外語グループのいしずえを築いてきた人々

第4回 アントン・グディングス神田外語学院第4代学院長『課題と向き合い、言葉を育む』

1963年(昭和38)に設立された神田外語学院は、英語学習熱の高まりのなかで、飛躍的に学生数を増やしていきました。1969年(昭和44)には学校法人佐野学園が設立され、1976年(昭和51)には専修学校としての認定を受けます。急激な成長の一方で、学院はイギリスやアメリカから外国語の英語教授法(TEFL)の資格者を教員として採用するとともに、画期的な英語教授法「タスクベース・シラバス」を導入することで、英語教育機関として内容の充実を図っていきました。学院の先進的な語学教育の道を切り拓いていったのは、イギリスと日本の両方の文化を理解するひとりの人物でした。神田外語学院、アントン・グディングス第4代学院長の物語です。

神田外語との関わりを話す前に、少し私自身の生い立ちのことを話しましょう。

私の父は朝日新聞の新聞記者で、特派員としてロンドンにいました。父はそこで母と出会い、結婚したのです。1920年代のことです。1928年(昭和3)になり、母は私を身ごもったのですが、父の帰国が決まりました。母は私を英国で生みたがっていましたが、父の帰国の予定日は変えられない。英国船籍の船に乗り、日本に向けて出航しました。当時は、英国から日本まで3カ月かかりました。

日本に到着してすぐに私が生まれました。母は英国国籍にこだわり、乗って来た客船が英国船籍だったので、船長に頼み込んで船上で生まれたことにして、英国大使館に書類を出してもらいました。そこで、イギリス人としての国籍をもらいました。でも、父は父で、「息子は日本人でなければならない」と大森の区役所に届けていましたから、日本人としての国籍も持っていたのです。日本名は「安敦(やすあつ)」。アントンの当て字ですが、父は母とロンドン(倫敦)で出会ったので、「敦」の一文字を入れたかったそうです。

帰国すると父は大森に大きな洋館を建てました。母が望んだのでしょう。母はあくまで私を英国人として育てようとしました。学校は横浜のセント・ジョセフに通いました。今で言うインターナショナル・スクールですね。日本人はこういった外国の学校には入れませから、きっと母や父がいろいろと働きかけたのでしょう。セント・ジョセフでは2回ほど飛び級をしました。

第二次世界大戦が始まり、1944年(昭和18)には学校が閉鎖され、外国人の先生方はキャンプ(強制収容所)に入れられてしまいました。高校を卒業する1年半前のことで、16歳でした。外国人が行ける学校なんて他にはなかったけれど、両親が調べてくれて、早稲田大学で学べることが分かった。今でこそ早稲田大学には国際部があり、千人規模の留学生を受け入れていますが、当時、早稲田で学んでいた外国人は8人ぐらいでした。

1945年(昭和20)になると東京への空襲も激しくなり、今度は早稲田大学が空襲を受けた。それで学校が閉鎖になってしまったんです。一方、新聞記者をしていた父は、英国人である母と結婚していたこともあり、憲兵に連行されました。母は父を助けようとずいぶんと動いたようです。ある日、父が突然帰ってきました。軍服にサーベル下げて。驚きましたね。軍属になれば釈放すると言われ、受け入れたのです。父は外国語ができたから、インドネシアあたりの南方に捕虜収容所の所長として派遣されました。

父がいなくなると、母はスイス領事館に助けを求めました。当時は、英国の大使館がすでに引き上げていて、スイス領事館が窓口だったんですね。領事館は英国側と協議をしてくれて、毎月、お金と食べ物を支給してくれることになりました。私たちは外国人でしたが、国際法では女性と子どもは強制収容所には入れられないのです。東京にいると危険なので、軽井沢へ避難しました。1945年の春のことです。当時は、日本の同盟国は箱根、連合国は軽井沢に避難していました。

ただ、スイス領事館からは毎月、東京の事務所にお金と食べ物を取りに来るように言われていました。私は、夜になると貨物列車の連結部分にしがみついて、東京へ行きました。スパイ映画そのものです。外国人だから、切符が買えないんです。東京に着くと、一面の焼け野原。運河には死体が浮いている。スイス領事館でお金をもらって、また夜になると貨物列車の連結部に乗って、軽井沢に戻りました。(1/9)

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写真撮影:塩澤秀樹
取材・文:山口剛

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