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50th Anniversary -Interviews-
父の金右衛門はきく枝に女性として生きていくうえで、こんなアドバイスもした。
「『人間一生のうちには、仕事に失敗したり人に裏切られたりして苦しむことが必ずある。そんなとき、男は体力があるから、それこそ何をやってでも再起できるだろう。女は男とちがって、体力で押していくわけにはいかないから、頭で勝負しろ』。父はそういう人でした。『自分の身につけた勉強は、何があっても誰にも奪われはしないよ』といつも言われました。そこで私は女の仕事として、教師の道をえらんだのです。」(※3)
鯖江裁縫女学校を卒業したきく枝は、検定試験で小学校教員免許を取得、大正14(1925)年に19歳で小学校の教員となった。
「私は、もともと子供が好きですし、先生としても、生徒ひとりひとりを可愛がったと自分でもそう思います。生徒のほうでも、私を慕ってくれました。いつの時代でも教育者の姿勢に変わりはないと思います。」(※4)
明治の末から大正にかけ、日本の教育界では、欧米の影響を受け、子供たちの自発性や個性を尊重する教育の重要性が叫ばれていた。きく枝が教師になったのは、まさにその「大正自由教育」の時代であった。きく枝自身も当時の教授法について、こう語っている。
写真上:学生と歓談する佐野きく枝先生
(佐野学園所蔵)
写真下:卒業パーティでの1コマ。
(池田弘一氏提供)
「大正14 、15年ごろは、自由教育が唱えられていて、私もいろいろ考えました。『日めくり』というのがありましてね。毎日1枚ずつはがした日めくりを生徒に持って来させて教材にしました。『日めくりの数字で何か問題をこしらえてごらん』と言うんです。そうすると、数字の間に、+、?、÷、×などの記号をはさんで問題を考え出す子が出てくる。そこから引き算・掛け算・割り算と、さまざまな問題が、ほとんど自然に引き出されてきます。
とにかく子供たちは自分の力で問題がつくれるわけですから、たいへんな喜びようで、ニコニコしながら勉強して力がつく。その子の程度にあった問題が出てきますので、私も判断材料を得られる。文字どおり一石二鳥でした。」(※5)(2/7)
3.4.5. 「対談 心の触れあう教育を」より