神田外語グループのいしずえを築いてきた人々

第20回 佐野きく枝 神田外語学院第2代学院長『心の交流が争いのない世界を創る』

これからは、外国との交流が大切になる
それは、私たち夫婦だけの問題ではない

結婚3カ月後、ふたりで明治神宮を散歩していたときのことであった。

「『頼りになるのは、あなた一人よ』と言ったら、『頼られちゃ困るよ』と言われたんです。『夫婦というのは二人そろって並んで歩くものなんだよ。お互いに助け合って生きていこうじゃないか。こちらに正すべき点があったら遠慮なく言ってくれ。夫婦ってものはそうあるべきだ。だから、頼られては困るんだ』と。はじめは薄情な人だと思ったりしまたけど……。」(※8)

その言葉通り、公一ときく枝は二人三脚で、事業を興し、学校を経営していく。佐野夫妻は、1男3女に恵まれた。昭和9(1934)年には後に、佐野学園の経営を継ぐ隆治が生まれた。末娘を出産すると、きく枝は小学校の教員に復帰し、昭和19(1944)年まで教え続けた。公一は自らの会社「佐野商店」を立ち上げ、航空部品を製造する鉄工所の経営を始めた。

そして昭和20(1945)年8月15日の終戦。浅草から深川までの焼き尽した東京大空襲から奇跡的に被害を免れた佐野商店で、きく枝は公一とともに、スキやクワ、鍋や釜など人々が求める必需品を鉄工所で作り、売った。昭和25(1950)年には朝鮮戦争が勃発。日本はこの特需を足がかりに敗戦からの復興を遂げていく。この時期になると、公一ときく枝は貿易業を営み始めていた。ふたりは外国語教育の必要性を強く感じるようになっていった。

「昭和26、27年ごろでしょうか。主人と貿易会社をやったことがありましてね。商談や交渉をするのに、言葉がうまくないと思うように事が運ばない。だいいち、お互いの気持ちさえ通じ合わないんですね。筆談で、というわけにも参りませんからね。必要に迫られて、これは語学につよくなければ、これからはやっていけない、と痛感させられました。

写真上:二人三脚で歩んだ佐野公一
先生ときく枝先生。学院の式典にて。
(池田弘一氏提供)
写真下:学院の教育はアントン・グディングス
氏ら外国の文化に精通した教員に任せた。
(佐藤武揚氏提供)

私たちのほかにも言葉が通じないで困っている人が多いのではないか、と考えたんです。戦争に負けて、これからは外国との交流が大切になる世の中に変わる。それは日本人全部が、ひしひしと感じたと思うんですよ。それには、私たち夫婦だけの問題ではない。みんなが勉強するには、どうしたらよいだろうか。特に次代の日本を背負う若い人たちに勉強してもらわなければいけないんじゃないか。学校をつくろうと思い立った理由は、こんなところでした。」(※9) (4/7)

     8. 9. 「対談 心の触れあう教育を」より

 

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写真撮影:塩澤秀樹
取材・文:山口剛

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