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50th Anniversary -Interviews-
昭和32(1957)年、佐野夫妻は念願の英語会話学校を東京・神田で始めた。自らトラックに乗って立て看板を取り付けて生徒を募集した。学生数は少しずつ増えていった。昭和38(1963)年には、長男の佐野隆治が学校経営に参画した。神田駅北口に新しい校舎ができるのを機に、きく枝は、公一と仲違いして実家を離れていた隆治を呼び戻したのである。
昭和39(1963)年には神田外語学院と改名。生きた英語を教えようと、海外に視察へ出かけた。夫婦で出かけても、飛行機は別だった。万が一、事故に遭ってもどちらかが生き残れるようにという公一の考えからだった。昭和44(1969)年に学校法人佐野学園を設立。公一の本名は和一(わいち)といったが、法人化を機に通り名を公一に改名した。公人となる決意の表れだった。学院は外国人を積極的に採用し始めた。きく枝は外国人教員に対しても、自分なりの信念を持って接した。その考え方は、神田外語グループの柱である異文化コミュニケーションそのものであった。
「私ね、その外人の先生方に言うんです。『日本に来られたら日本のこともよく勉強してくださいね。言葉そのものは各人の母国語ですから、もちろん教えられますけれど、それだけでは、ちょっと困るんです。言葉というものには、その言葉が成り立ってきた背景・歴史があり、長いあいだに培われた、その国独特の発想があるでしょう。お国の事情がそうであるように、日本にも同じように歴史なり伝統があります。日本人特有の発想というものにも目を向けていただきたい』と言うんです。
日本人と外国人が互いに、単に言葉を教え・教えられるという関係だけに終わってしまったら、ほんとうに残念ですし、私どもが学校をつくった根本の心とも合わなくなってしまいますしね。ですから、この学校で教えている外人の先生たちは、あちらですでに日本のことを勉強してきた方もいますけど、そうでない方々には、学院のなかで集まって、日本の文化や歴史を勉強していただいております。」(※10)
写真上:学院では恒例となった外国人
教員による書き初め。
(池田弘一氏提供)
写真下:金色夜叉を熱演した外国人
教員たち。(神田外語学院校友会
『平和の礎』 より)
きく枝は、日本文化に精通した講師の池田弘一の協力を得て、正月になると外国人の教員に書き初めをさせた。男性は羽織袴、女性は振り袖を着た。作品は神田駅に掲出され、新聞にも取り上げられた。外国人教員たちは、尾崎紅葉の小説『金色夜叉』を芝居で上演したり、千葉の農家に田植えに行ったりと日本文化を理解するためのさまざまな体験の機会を得たのである。(5/7)