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50th Anniversary -Interviews-
私と英国のかかわりを説明するには、時計を幕末まで戻さなければならない。川田家はもともと土佐藩の「郷士」でした。土佐藩には武士に「上士」「郷士」という身分制度があり、郷士は下級武士で暮らしもひどく貧しかった。この土佐の郷士階級から、土佐勤王党の武市半平太や坂本龍馬など、幕末の動乱期の中心人物が現れます。
彼らと同時代を生きた私の曾祖父、川田小一郎には経営の才覚があり、幕末期には藩財政の管理などで手腕を発揮しました。同じく土佐の郷士で、ビジネスに長けていたのが岩崎弥太郎です。明治維新後、小一郎は岩崎弥太郎をリーダーとする九十九商会(後の三菱商会)に幹部として参画し、船舶事業などで三菱財閥の礎を築いていきました。
川田小一郎の長男が私の祖父・川田龍吉です。龍吉は、岩崎弥太郎がアメリカ人教師・ヘースを招いて大阪の土佐藩蔵屋敷に開いた英語塾で4年間にわたり英語を学び、後に英国のスコットランド、グラスゴーへ留学しました。川田小一郎は、三菱の発展には造船技術の専門家を育成することが不可欠と考え、息子の龍吉に留学することを命じたのです。グラスゴーは当時、世界の造船の中心でした。
こうして、龍吉は7年間に及ぶ英国留学に出発するのです。明治10(1877)年、龍吉が21歳のときです。龍吉は、ヴィクトリア朝のピーク期のスコットランドで、先端の造船工学を学ぶ一方で、現地の英国人女性と恋に落ちます。帰国後に父・小一郎に結婚を懇願しますが、認められず、2人の恋は成就しませんでした。
余談ですが、龍吉は帰国後に横浜ドックなどを手がけた後、函館ドックの再建を任されて北海道へ移住します。農民たちの貧困を目の当たりにした龍吉は、欧米からアイリッシュ・コブラーという品種のジャガイモの種イモを輸入し、自らの農園で栽培し、地域の農家への普及を図っていきました。龍吉は、早世した父・小一郎が持っていた男爵の爵位を継承していましたから、このジャガイモは、「男爵イモ」と呼ばれるようになったのです(※1)。
もうひとり、英国と縁が深いのが私の伯父。川田家の跡を継ぐ優秀な人物として、オックスフォード大学に留学しました。しかし、当時の英国はヴィクトリア朝の終わりの時期。ロンドンではスモッグがひどく、肺結核を患ってしまった。帰国後は祖父・龍吉と一緒に北海道で農場経営していましたが、29歳で亡くなったのです。
ともに英国で青春時代を過ごし、かたや英国女性と結ばれなかった祖父、そして無念の死を遂げた伯父。どうもこのふたりの意思が働いていて、ブリティッシュヒルズで働くようになる私の人生が決定されたとしか思えません。ブリティッシュヒルズには、ふたりが青春をつぎこんだ英国の雰囲気がありますからね。
不思議なことがひとつありましてね。三菱商事時代に、出張でロンドンに行った時のことです。仕事の合間にウィンザー城に行ったのだけど、案内されなくてもトイレの場所が分かってしまった。一緒に行った現地の駐在員が驚いたけれど、自分でもどうしてかは分からない。きっと、祖父や伯父が上から見ていて、教えてくれたのでしょう。(2/7)