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50th Anniversary -Interviews-
バトラーのミスター・スタンブリーとは色々な演出をしましたよ。例えば、霞会館の方々が見えたときのことです。霞会館は昔の華族会館なので、メンバーはみな、辿っていけば祖先は殿様クラス。だから、バトラーには「英国の貴族社会で使っている言葉をそのまま話してほしい」と伝えた。バトラーは、彼らに "Yes, my Load."(ご主君、かしこまりました)って言うもんだから、みんなご機嫌でした。ミスター・スタンブリーは、芝居っ気のある人物でしたね。
ブリティッシュヒルズがオープンした頃は、学生は神田外語の学生ぐらいだった。だから、鹿鳴館じゃないけど、大人の社交場を目指して中身を作っていった。お客様は正装して来たものですよ。英国大使館のみならず、スロベニア大使のご一家もいらした。ロスチャイルドのお嬢さんがリサイタルをやったこともある。英国大使館のお墨付きの歌手でね。冬の日だったけれど、女性はミンクのコートにドレス、男性はタキシードでやって来た。バトラーが嬉しそうに、「ミスター・川田、マナーハウスはこうでなきゃいけませんよ」と言っていたのを覚えていますね。
当時のサービススタッフは、ワーキングホリデーで来日している英国や英連邦の若者たちが中心でした。ワーキングホリデーは働きながら学ぶことが基本だから、私は彼らに日本語を教えて、日光や会津にも連れて行ってレクチャーをした。会津には「日新館」という藩校があります。ここでは孔子の『四書五経』を教えていた。つまり、日本における異文化研究や異言語研究の第一歩を踏み出した場所だった。私が「ここは250年前のブリティッシュヒルズだよ」と説明すると、外国人スタッフたちは納得してくれましたね。
私は彼らに日本の封建制度について教え、日本の城と西洋のキャッスルの違いを教えたりした。長くいる英国教師は、そんな話をまとめて外国人スタッフ用の教材を作っていた。私はとにかく、彼らに日本がどういう国かを教えたかったのです。
先ほど、お皿の話をしましたが、料理も相当なものだった。佐野会長の理念に、フランスの料理学校、ル・コルドン・ブルーが賛同して、3年間ほど料理人を派遣してくれた。英国だからといって、英国料理ではない。バッキンガム宮殿でも、晩餐会はフランス料理。ロンドンのテムズ川沿いにある有名なレストラン、ガブロッシュもフランス料理。イギリス人が片言のフランス語を話してサービスをしている。こちらがフランス語で質問すると、ウェイターは「これ以上は話せません」って、困ってしまう。まぁ、それはともかくとしても、マナーハウスであるブリティッシュヒルズには、ル・コルドン・ブルーのようにトップクラスのフランス料理がふさわしかった。
部屋のクロゼットにあるマントは佐野会長の発案でしたね。「18世紀には雨傘なんてなかったよ」って言われて、まったくその通りだと思った。客室棟とマナーハウスやリフェクトリーを行き来するのに、マントを羽織って歩いてくる。これも、『ハリー・ポッター』の映画が出来るまでは理解してもらうのに苦労したものです。
日本に、かつてない他とは違うものを定着させようと、佐野会長も、私も、そしてスタッフたちも一生懸命でした。そのこだわりがナンセンスだと言われたらそれまでだし、当時は経営が厳しかったら、そろばん本位で「意味のないことだ」と言われていたかもしれない。でも、本物の英国文化を体験させたい、という思い入れがなくなってしまえば、観光ホテルと変わらなくなってしまう。それだけは、絶対にしてはいけない、という想いが私にはありました。(4/7)