異文化理解教育の先駆者たち

第2回 久米昭元立教大学特任教授『かつてない活動を展開し続けた異文研』

異文化コミュニケーションの研究所を持ち、
研究活動を思い切りできるのは神田外語大学しかなかった

昭和55(1980)年、エドワード・スチュワート先生が国際基督教大学で客員教授をされていました。スチュワート先生はミネソタ大学時代の私の恩師です。先生は日本が直面する問題を議論する会合を主宰されていました。当時は日米貿易摩擦が激しくなり始めていた時期。経済的な力を増す日本と他国との間でさまざまな問題が生じるようになっていました。私は、この会合で古田暁先生に出会ったのです。

古田先生にはオーラがあり、人を引きつける力がありました。確固たる信念があり、物事を哲学的に、そして明快に語る。長年、アメリカやバチカンで神学の研究をされてきた古田先生もまた、日本の現状に危機感を覚えていた。非常勤講師をされていた国際基督教大学でスチュワート先生に出会い、異文化コミュニケーション教育が、その問題を解決するために必要であるとお感じになっていました。とりわけ、日本の若者の考え方を柔軟にするためにね。

その後、古田先生は佐野学園と出会い、異文化コミュニケーション研究所(以下、異文研)の設立に参画されました。この分野では日本初の研究機関です。昭和59(1984)年に活動を開始した異文研は、神田外語学院の講堂で講演会シリーズを始め、そうそうたる論客が異文化理解の課題について講演をしました。

私自身は、昭和58(1983)年に神戸市外国語大学の助教授に就任していました。その後、千葉の幕張での神田外語大学の開学が決まり、東京の神田にあった異文研も大学のキャンパス内に移転することになりました。古田先生には、ずいぶんと神田外語大学に誘っていただきました。しかし、関西の人間にとって、箱根の山を越えて関東に拠点を移すのは勇気がいるものです。昭和62(1987)年の神田外語大学の開学からの数年間は、異文化コミュニケーション科目の集中講義の講師として、短期間の授業を担当しました。

当時、異文化コミュニケーションの研究所を持ち、研究活動を思い切りできるのは神田外語大学しかありませんでした。私にとって非常に魅力的な場所だったのです。古田先生に、「ここであなたのやりたいことを、思い切りやってください」と言っていただき決心がつきました。平成2(1990)年、私は神田外語大学の教授に、そして翌年には異文研の副所長に就任しました。 (5/9)

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写真撮影:塩澤秀樹
取材・文:山口剛

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