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50th Anniversary -Interviews-
あの頃は、講師と教室、黒板があれば学校はできるという時代でしたよね。神田にはかつて日米英会話学院という実践的な英語を教える学校がありました。ですが、四谷に移っていたので、当時の神田には他に英語学校はなかったと記憶しています。
昭和32(1957)年の設立当初は、「セントラル英会話学校」という学校名でした。その後「セントラル米英語学院」という学校名の時期もありましたが、文献を調べてみると、東京外国語大学の前身、「東京外国語学校」や「東京外事専門学校」は神田にあったんですよ。今の、岩本町や駿河台のあたりに校舎があった。日本で初めて外国語を教えた学校が神田にあったということです。
せっかく外国語教育の歴史を感じさせる場所にあるのだから、カタカナを使わずに、「神田外語学院」にしようと親父に提案しました。分かりやすいしね。昭和39(1964)年1月のことです。
最初は堀江さんに学院の事務長をお願いしていましたが、その後は僕が引き継ぎました。新聞広告で学生の募集をしたり、宣伝や広報をやりました。ただ、先生の募集だけは親父がやるんですよ。僕は29歳。まだ若かったからね。親父には人を見る目があったと思いますよ。だから、よい先生に来ていただいて、学校もうまくいくようになった。生徒はどんどん増えていきましたね。
同じ頃に、神田駅の北口のほうに新校舎を作ることになり、予備校は辞めて、英語の教育に専念することになった。どんな英語教育をするか? 親父も、おふくろも、そして僕も、誰ひとりとして英語の専門家なんていませんでした。英語の教育論については、まったくの素人だったのです。
親父が決めたのは、外国人の先生を採用することでした。それも1人や2人ではなくて、ほとんどの教員を外国人にすると決めました。日本人の先生なんて、ほんの数人しかいませんでしたよ。(2/6)