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50th Anniversary -Interviews-
当時、日本の学校では、英文科を卒業した先生、つまり英文を読める先生が英語を教えていました。話せるわけではありません。だから学院では、外国人の先生を採用して、彼らに任せたほうがよいと考えた。ヨーロッパの国々には自分たちの言葉を植民地で教えるための語学教育法があった。違う母国語を話す人々に外国語を教えるには、そういう方法論が必要なんですよ。
外国人の先生を大勢、雇おうということになって、僕は親父に「外国人の先生でよい教育をするのだから授業料を上げよう」と提案しました。外国人を雇うのにはお金がかかりますからね。親父は結果的にOKしてくれました。必ず一言何か言うけれど、物わかりはよかったと思いますよ。外国人の先生が大勢来てくれたから、夜間部も外国人の先生でやろうということになりました。
夜間部をやるときに親父に言われたのは、「生徒さんたちは仕事が終わってから学校に通う。大変だから、学校は駅の近くでなくてはいけない」ということでした。その通りだと思いました。親父も学生時代は、苦労して学んだようですから、そういうことに気づいたんですね。
昭和44(1969)年、学校法人佐野学園を設立しました。数年前から親父は「学校は学校法人にしたほうがいい」と言うようになっていた。振り返ってみると、あのときの親父は偉かったと思います。学校法人にするってことは財産を国に寄付するのと同じことです。もう、学校が個人のものではなくなるんですよ。
親父は、当時のお金で2億数千万円を用意しました。色んなものを売ったようです。とにかくすごいなと思いました。普通は、個人塾で儲けていたら、寄付なんかしないですよ。それも全財産を投げ打った。僕だったら踏み切れたか、分からないですね。
もうひとつ、親父の本名は「佐野和一」だったんですよ。それが、学校を立ち上げたときに、自分の通り名を「佐野公一」に変えました。学校の経営者という「公人(こうじん)」になることへの決意の表れだったと思いますよ。(3/6)