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50th Anniversary -Interviews-
「東京外国語大学にストレートで合格し、就職してからは会社一筋で 30 年間働いてきました。正直、『このままでいいのか?』と思ってしまったのです。とにかくサイコロを振ってみよう、そう思って会社を辞職したのです」
佐藤徹が出版社を辞めると、すぐに広告部時代の後輩から声がかかった。神田外語学院を経営する佐野学園が新しい大学を設置するための職員を必要としている、というのだ。
佐野学園のルーツは昭和32(1957)年、東京・神田に開校された「セントラル英会話学校」に遡る。この学校は、第二次世界大戦の敗戦を経験し、「平和な日本を築くためには外国人と対等に渡り合える若者を育てなければならない」と痛感した佐野公一・きく枝夫妻が創業したものである。実務で使える英語の学習を主眼とした同校には、英語を学ぶことに意欲的な若者が日本中から集まった。
昭和39(1964)年には「神田外語学院」へと改称し、英語を母国語とする外国人教員による授業、最先端の視聴覚設備を整えた学習環境、そして分野ごとに専門性の高い実務英語を教えるカリキュラムなどを整えながら、日本を代表する英語学校に発展していった。昭和44(1969)年には学校法人佐野学園を設立し、昭和51(1976)年1月には東京都から専修学校としての認可を得た。そして、神田外語学院の経営を軌道に乗せた佐野学園は、大学の設置を目指すようになる。
大学の設置に向けた準備を率いたのは、当時、神田外語学院の事務長であり、佐野学園の理事を務めていた佐野隆治である。佐野は既存の外国語大学の枠にとらわれない、新しい大学の実現を目指した。その中心になる考えは、「異文化コミュニケーション」だった。日本人としての文化観をしっかりと持ちながら、外国の異文化も理解する。外国語の高い運用能力を持ち、外国人と対等な立場で意思の疎通ができる。そんな高い教養と技能を併せ持った日本人を育成する「新しい大学」をつくりたいと佐野は強く思ったのである。
佐野は佐藤の実績を評価し、佐野学園への参画を求めた。新しいコンセプトの大学を実現するうえで、幾多の困難が生じるはずだ。叩き上げの経験を通じて私立大学の本質を理解している佐藤であれば、この仕事をやり抜けるだろうと佐野は見込んだのである。昭和61(1986)年4月、佐藤は佐野学園に奉職した。(2/8)