神田外語グループのいしずえを築いてきた人々

第22回 佐藤徹神田外語大学元事務局長 『建学の理念を体現する大学を目指して』

外国の文化と言語を理解し、外国人と真のコミュニケーションができる人間の育成を理念に掲げ、昭和62(1987)年4月、神田外語大学が開学しました。既存の大学にない、新たなコンセプトの大学を実現するうえで開学後に大きな役割を果たした人物に佐藤徹氏がいます。民間企業で得た能力を惜しみなく発揮した佐藤氏が活躍した背景には、私立大学の本質を理解し、佐野学園の建学の理念を具現化しようとする強い意志がありました。(構成・文:山口剛/文中敬称略)

「全国すべての私立大学を回りました。大学を訪れれば、『あの蛍雪時代からわざわざ営業が来た』と応じてくれて、それぞれの県でひとつの大学くらいは広告を出してくれる。成果も上がるので面白かったですね。そして、何よりも、国立大学出身の私が、私立大学とは何かを学ぶ大きな経験になりました」

佐藤徹は、『蛍雪時代』の営業で全国を回っていた時代をこう振り返る。東京外国語大学でフランス語を学んだが、ボート部の活動に没頭し、成績が芳しくなかった佐藤が先輩に紹介されて就職したのが旺文社だった。昭和31(1956)年4月のことだ。通信添削からスタートした同社は、大学受験生向けの雑誌『蛍雪時代』や「大学入試模擬試験」など大学受験関連の事業では不動の地位を確立していた。そして、私立大学が広報に力を入れると予見し、広告営業の部署を立ち上げたのだ。佐藤は広告営業の専門職として採用された第一期生だった。

広告営業を15年間続け、部門の責任者となったが、昭和45(1970)年に人事部への配属を命じられた。出版労連主導による労働争議が起きたのである。人事部の労務担当部長になった佐藤は、組合側との団体交渉に明け暮れる日々を過ごした。社内を二分する大騒動のなか、交渉の矢面に立ったのである。佐藤は、交渉と並行して、就業規則の作成にも取り組んだ。

人事部長を15年間務めた後、教育事業部長に着任した。旺文社では大学入試模擬試験を実施しており、受験者が30万人に及ぶ最大の規模だったが、佐藤が着任した頃には予備校系の模試が実績を伸ばしていた。佐藤は、全国模試の責任者として実務を仕切りながら、受験者の回復に取り組んだ。

広告、人事、模試など花形部署で責任者を務めてきた佐藤だが、経営者の代替わりによって役員として子会社へ出向することになった。おとなしくしていれば定年退職まで勤められる。家庭を持つ中年男性が中途退職するなど、一般的ではなかった。それでも佐藤は、昭和61(1986)年に旺文社を辞職した。(1/8)

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写真撮影:塩澤秀樹
取材・文:山口剛

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