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50th Anniversary -Interviews-
平成2(1990)年、学長の小川芳男が逝去し、津田塾大学学長を経験した井上和子が後任に抜擢された。言語学の権威である井上の就任によって、研究機関としての神田外語大学の地位向上にも期待が高まった。平成4(1992)年には大学院の修士課程、平成6(1994)年には博士課程が開設された。そして平成8(1996)年、神田外語大学は文部省からCOE(センター・オブ・エクセレンス)に採択されたのである。
COEは卓越した研究拠点を形成するために、5年間にわたり拠点として採択されるとともに、研究費が支給される制度である。学術審議会が選ぶもので、平成8年度は208件の応募があった。このなかから、井上が応募した研究テーマ「先端的言語理論の構築とその多角的な実証」が創造性豊かな最先端の学術研究として採択されたのだ。
他の認定プロジェクトでは、東京大学、大阪大学、九州大学、慶應義塾大学というトップクラスの大学が名を連ねている。当時の『教育学術新聞』(※3)では1面トップで「神田外大など7研究組織を選定」と報じている。佐藤徹は当時のことをこう振り返る。
「大学に採択の知らせが届いたのは1月4日でした。大学はまだ休暇中だったのですが、私はひとりで出勤していました。暖房も入っていない教務室で仕事をしていると、電話がかかってきて『文部省ですが、神田外語大学がCOEに選定されました』と言われたのです。跳び上がるほど驚き、そしてうれしかったですね。開学わずか10年目の大学がCOEを獲得したのは、教育界の大事件でした。COEによって神田外語大学の名が広く知れ渡ったのは間違いありません」
平成9(1997)年4月、神田外語大学の学長は石井米雄へとバトンタッチされた。アジア文化研究の第一人者である石井の起用によって、佐野学園がかつてから構想していた「太平洋圏の時代」に対応する学びが現実味を帯びてきた。そして、石井が学長として在職していた平成13(2001)年に「国際言語文化学科」が設置され、東南アジア諸国の言語と文化を学べるようになったのだ。(7/8)