異文化理解教育の先駆者たち

第1回 西山和夫ハワイ大学名誉教授『正しい日本を伝えるために』

ハワイ大学名誉教授の西山和夫先生は、日米間のビジネスをテーマにした異文化コミュニケーションの先駆者です。昭和51(1976)年にハワイを訪れた佐野きく枝先生と出会い、後には神田外語大学異文化コミュニケーション研究所の客員教授を務められました。「アメリカ人に正しい日本を伝える」という信念のもと、半世紀以上にわたり、ハワイ大学を拠点としてご自分の使命を貫いてきた西山先生を訪ねました。

私は昭和8(1933)年に茨城県結城市で生まれました。結城紬の織元の長男です。終戦のときは12歳でした。英語が大好きで、NHKラジオの “Come, Come, Everybody”で学んでいましたよ。高校生のときには英語熱が高まって、友達とも道端でも英語で話すぐらい熱中していました。高校生になると、スイス人宣教師が開いた教会に通い、英会話を学びました。そこで、私はクリスチャンになりました。

高校3年生のときに、英語が校内で1番になり、どうしても大学に行きたくて入学願書を取り寄せました。でも、13人兄妹の長男だったから、父は許してくれなくてね。商売人だった父は「金さえもうければ、東大の卒業生でもアゴで使える。金もうけが人生で一番大切だ」と。願書は晩酌の場で破り捨てられました。

高校卒業後は、神田にあった村田簿記に入学しました。結城から汽車で片道3時間かけて通いましたよ。月・水・金の週3日間だったから、残りの3日間は定期券を使って、千駄ヶ谷の津田英語塾に通った。父には内緒でね。学校を卒業してからは4年間、家業を手伝いました。仕入れた反物を担ぎ、東京や熱海、沼津の呉服店を訪ねる行商です。商売は人をだますのが当たり前の時代。5000円で買った反物を7000円で売るのに「8000円で仕入れたんですよ」と、うそをつく。教会で学んでいたキリスト教の教えとはまるで逆。あれはつらかったですね。

結局、家を飛び出しました。手持ちは母が持たせてくれた3000円だけ。東京の神学校で1年学んだ後に、千代田スクールオブビジネスの3年に編入しました。ある先生が、「パンナム(パン・アメリカン航空)でふたつのポジションを募集している」と教えてくれました。試験会場に行くと200人も受験者がいました。神学校では宣教師の通訳をしていたので、英語を話し、聞くのは問題なかったので合格できました。うれしかったですよね。落ちたら父のもとに帰らなければならなかったから。(1/8)

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写真撮影:塩澤秀樹
取材・文:山口剛

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