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50th Anniversary -Interviews-
大学院でもスピーチ・コミュニケーションを専攻しました。大学院生には学部生が大講堂で受ける授業を補佐する仕事が義務づけられていました。ネイティブの学生を相手に指導したのですが、私の評価はまるでダメでしたね。「ジャパンボーイが、なぜアメリカ人にスピーチを教えられるのか?」と。学生にしても大学院生の補助教員を批判することで自分の評価を高められますからね。でも、ある方にこう言われたんです。「西山、砥石を知っているか? 砥石はあんなに汚い石だけど、刀を磨けるんだ。おまえは砥石になれ!」とね。私にはスピーチの知識がある。その知識で学部生たちを磨くんだと気づきました。
実は、最初にスピーチ専攻の大学院に入学を申し込んだとき、当時の学部長には「あなたには日本語のアクセントがあるからスピーチの先生は無理だよ」と断られたんです。でもその後、学部長が代わって入学を認められました。その学部長の薦めでたくさんの先生方に出会いました。ハインバーグという先生はこう言ってくれました。「ニシヤマ、日本語のアクセントがあるってことは、日本語ができる証拠だ。劣等感なんて感じるな!」と。本当に多くの方々に励ましていただきました。そういった出会いがあったから、今の自分があるのです。
大学院時代にもうひとり大切な方との出会いがありました。ミネソタ大学のウイリアム・ハウエル先生です。当時、最先端だった異文化コミュニケーションの分野で先駆的な教育をされていた方です。ハウエル先生は私に会うと、「君のような人柄のよい日本人に出会ったことはない。カズオ、教授にならないか?」と言ってくれました。まだ大学院に入ったばかりの私はその言葉に驚くばかりでした。
1960年代後半の当時、正直なところ、アメリカ人は日本人をばかにしていた。元新聞記者のアメリカ人が書いた本には「日本のビジネスマンは酒を飲んで、冗談を言って、暴れる。ビジネスのやり方はとんでもない」と書いてありました。私は、本当の日本と日本のビジネスを正しく紹介する人間になろうと思うようになっていました。それは、日本とアメリカのどちらの文化もビジネスも理解している自分にしかできない。だから、ミネソタ大学で博士号を取り、異文化コミュニケーションの専門家になろうと決意したのです。(3/8)