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50th Anniversary -Interviews-
その後、神田外語大学設立の計画が始まりました。私も声をかけていただきましたが、ハワイ大学と終身雇用契約を結んでいたし、妻が日系2世で日本語は話せるけれど、日本で生活するのは無理だったのでお断りしました。昭和53(1978)年には佐野公一先生がご逝去され、昭和63(1988)年にはきく枝先生もお亡くなりになった。次第に神田外語とのご縁も薄くなっていきました。
しかし、縁というのは不思議なもので、神田外語大学の開学の数年後に、久米昭元さんが教授に就任し、異文化コミュニケーション研究所の副所長を務められ始めました。久米さんは、私の教え子なんです。ハワイ大学の大学院に留学しているときに私の講義を受けて、日米合弁企業の研究に興味を持ち、私と同じミネソタ大学でハウエル先生の指導のもと、博士号を取りました。
平成5(1993)年6月には、異文化コミュニケーション研究所に声をかけていただき、神田外語大学で講演を行いました。テーマは、「日米ネゴシエーションにおける認識ギャップ」です。その後、平成12(2000)年にハワイ大学を引退して、名誉教授に就任したのですが、その年の9月からは、異文化コミュニケーション研究所の客員教授として神田外語大学に招いていただきました。
異文化コミュニケーション研究所は、福島のブリティッシュヒルズで夏期セミナーを行っていました。私も来日した平成12(2000)年9月に開催されたセミナーに参加し、ワークショップを担当しました。テーマは「国際ビジネスにおける日本人とアメリカ人」です。私はアメリカの新聞などで報道されている日本人像を紹介しながら、経済発展を遂げている日本と日本人ビジネスマンがアメリカ人の目にどのように映っているかを解説しました。日本人の実像を情報発信し、アメリカ人のステレオタイプを変えていく必要性があることを参加者と議論したのです。
神田外語大学の後期が始まると、客員教授として異文化コミュニケーションやパブリック・スピーキング・コースの授業を担当しました。帰国子女の学生たちが熱心に勉強していたのが印象的でした。また、大学や学院で講演会も行いました。テーマは「アメリカから見た日本 日米関係の問題点」でしたね。(6/8)