神田外語と異文化理解教育の歩み

敗戦の経験から生まれた国際人の必要性

昭和20(1945)年8月15日、佐野学園の創立者である佐野公一は太平洋戦争の終戦を東京・上野で迎えました。

佐野は戦時中、航空機の部品などを生産する鉄工所「佐野商店」を経営していました。浅草から深川にかけての下町エリアは、終戦5カ月前の3月に起きた東京大空襲によって壊滅的な被害を受けましたが、上野駅周辺は爆撃を免れ、佐野商店も奇跡的に焼け残りました。

果てしなく続く焼け野原を前に、佐野は外国文化の理解と外国語教育の必要性を痛切に感じたといいます。

「人間社会は人と人の和ですからね。まず話し合って、相手のことをよく知る。それには言葉ですよ。世界の中の日本として考え、国際人として立たなければ日本の将来はない、とまあこう考えたわけですよ」

佐野は、鉄工所を復興し、敗戦から立ち上がろうとする人々が必要とするものを生産し始めました。クワやスキなどの農耕具、鍋や釜などの炊事用具。そして、復興が一段落すると、貿易業や喫茶業にも事業を広げていきました。

佐野学園創立者の佐野公一(神田外語学院初代学院長)と佐野きく枝(同第二代学院長)
佐野学園創立者の佐野公一(神田外語学院初代学院長)と佐野きく枝(同第二代学院長)。

外国語学校をつくり、外国人と交流できる人を育てたい

外国人を相手に商談をする貿易業を営むなかで、佐野公一は外国語教育の必要性をあらめて痛感するようになりました。妻であり、後に学校経営をともに行っていく佐野きく枝はこう回想しています。

「昭和26、27年のごろでしょうか。主人と貿易会社をやったことがありましてね。商談や交渉をするのに、言葉がうまくないと思うように事が運ばない。だいいち、お互いの気持ちさえ通じ合わないんですね。筆談で、というわけにも参りませんからねぇ。必要に迫られて、これは語学につよくなければ、これからはやっていけない、と痛感させられました」

「私たちのほかにも、言葉が通じないで困っている人が多いのではないか、と考えたんです。戦争に負けて、これからは外国との交流が大切になる世の中に変わる。それは日本人全部が、ひしひしと感じたと思うんですよ。それには、私たち夫婦だけの問題ではない。みんなが勉強するには、どうしたらよいだろうか。特に次代の日本を背負う若い人たちに勉強してもらわなければいけないんじゃないか。学校をつくろうと思った理由は、まぁ、こんなところでした」

こうして佐野公一・きく枝夫妻は、外国語学校の設立に向けて準備を始めていったのです。

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写真撮影:塩澤秀樹
取材・文:山口剛

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