神田外語学院では、外国語の学習に加えて日本文化の教育にも力を入れていきました。華道や茶道のほか、「文化と教養」といった科目を設け、学生が日本文化を学ぶ機会を提供したのです。イギリスやアメリカでの語学研修でも、女子学生には浴衣、男子学生には柔道着を持たせ、現地では折り紙や書道のイベントを開催しました。学生を引率した佐野隆治はこう回想しています。
「現地学生の名前を当て字の漢字で書いてあげた。大成功ですよ。仲良くなって、その日のうちに片言でも英語をしゃべる。外国人とコミュニケーションするうえで、文化は強い。学生に日本文化の勉強をさせなくてはと思いましたね」
昭和51(1976)年1月、専修学校設置基準が施行されました。高等学校の教育課程を修了した者が職業に必要な専門課程を学ぶ「専門学校」が法律によって認められたのです。神田外語学院もいち早く申請し、認可を得ました。
この法律では、専門学校を修了した者は短期大学修了と同等の資格を得て、4年制大学の3年次編入学が認められるはずでした。しかし、現実には編入学を認める大学はほとんどありません。大学への編入学を希望する学院生のほとんどが、入学試験を受けて1年生から学び直さなければならなかったのです。
佐野学園は、学院生が大学へ編入学する道を拓くべく、大学の設置に向けて動き始めました。
昭和53(1978)年、千葉県が幕張の埋め立て地に教育機関を招致する方針を決めると、佐野学園は県に対して埋め立て地の利用申請を行いました。昭和54(1979)年8月、外国語大学設立の構想案を策定。昭和57(1982)年4月には、大学設置準備室を設け、本格的な準備を始めました。
佐野学園が大学設置の方針を公にした当時、文部省は都市部における新大学の設立を、特に必要と認める場合を除いては認可しない方針でした。同省は戦後、急速に増加した大学進学者に対応するため、大学の新設を認めてきました。しかし、戦後30年が経過し、見直しが必要な時期を迎えていたのです。
佐野学園が首都圏に大学を設置するには文部省が「特に必要と認める」教育を用意しなければなりませんでした。従来の外国語大学と差別化を図り、なおかつ文部省が必要と認める学問を軸とする新大学。大学設置の責任者を務めていた佐野隆治は、当時はまだほとんど知られていなかった「異文化コミュニケーション」という新しい学問に注目しました。