異なる文化を理解したうえで、外国人と深いコミュニケーションを図り、関係を構築していく。異文化コミュニケーションという新しい学問の目指すところは、佐野学園がこれまで目指してきた教育理念と合致するものでした。
しかし、この新しい学問を大学の柱にするには、教育の中心となる専門家が必要でした。昭和58(1983)年、佐野学園は古田暁に出会いました。古田は、アメリカ・カトリック大学で神学の博士号を取得した神学者です。
古田は、戦前にアメリカへの移民運動に携わった父を持ち、昭和4(1929)年、アメリカで生まれました。その後、戦争を逃れて来日し、終戦までの時期、日本で育ちました。戦後、ふたたびアメリカに渡り、20年間に及ぶ神学の研究に身を投じたのです。昭和40年代初めに帰国し、昭和52(1977)年からは、講談社インターナショナルが編纂する『Encyclopedia of Japan(英文日本大百科事典)』の編集主査を務めていました。
古田は、国際基督教大学で講師もしており、同大学で客員教授として教鞭を執っていた異文化コミュニケーション学の先駆者のひとり、エドワード・スチュワートと出会ったのです。
昭和50年代、産業立国として急成長していった日本とアメリカとの間では貿易摩擦が熾烈さを増していました。古田は、ともにルーツのある両国が溝を深めていくことに大きな危惧を抱いていました。そして、スチュワートとの出会いによって、異文化コミュニケーションという学問を日本で広げ、国際問題を解決できる若者を育てていく重要性を確信したのです。
佐野学園は、古田に対して新大学設立の構想を打ち明け、プロジェクトへの参画を求めました。英文日本大百科事典の完成を目前に控えていた古田は、この依頼を快諾。両者の合意によって、昭和59(1984)年3月、佐野学園附属異文化コミュニケーション研究所が設立されました。
設立当初の異文化コミュニケーション研究所は主に啓蒙活動に力を入れていました。昭和59(1984)年11月には『国際シンポジウム 日本の国際化に果たす教育の役割』を開催。昭和60(1985)年になると「異文化コミュニケーション講演会」を神田外語学院の講堂で開催。年間に7?8回というペースで、ドナルド・キーン(コロンビア大学)をはじめとする各界の専門家を招き、さまざまな見地から異文化理解の重要性を啓蒙する情報発信を展開していきました。