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50th Anniversary -Interviews-
明治26(1893)年生まれの父は、宮城県の小午田農林学校を卒業後、北海道にあった東北大学農学部(※2)で花の栽培について学びました。研修修了後、20代前半でアメリカに渡り、ニューヨーク州で農場経営をしながら学んだことを実践していきました。母は広島の出身です。戦前は広島から海外へ渡る人は多かったようです。私は大正15(1926)年にニューヨーク州で生まれました。
昭和8(1933)年、日本に帰国しました。国際情勢の雲行きがあやしくなっており、このままでは強制収容所に入れられるかもしれないと父が判断したからです。氷川丸で2週間以上かけて太平洋を横断して帰ってきました。私が8歳のときのことです。帰国後は千葉県に農園を構えました。帰ってきても日本語が話せないし、書けないから家庭教師をつけて大特訓しました。
父は東北の宮城県の出身なので、帰省するときは列車で行きました。あるとき、列車の中の水道水を飲んでしまった。当時、列車の水は汚くて飲んではいけないのは常識でした。案の定、赤痢になった。医者に見放されるくらいひどかったけれど、好きなものを食べていいと言われ、チョコレートとバナナを食べたら治った。水を飲んでしまったのは、アメリカにいた時に、東海岸のニューヨーク州から西海岸のシアトルまで大陸を横断する寝台列車で行ったことがあり、その列車では水も飲めたからです。アメリカと日本の常識の違いを知らずに命を落としかけた。そんなことが何度かありましたよ。
私も自然と農学を志すようになっていきました。中学を卒業した後は、盛岡高等農林学校へ進学することに決めました。成績は充分でしたが、色弱のため身体検査で落ちてしまった。結局、浪人しました。昭和19(1944)年のことです。農学をあきらめた後は、一橋大学へ進学することに決めました。戦時中だから、南方で活躍しようと思ったのです。
英語の成績はよかったですね。中学、高校といつも先生に褒められてきた。だから、東京高等師範学校(※3)にも興味があった。一橋大学と受験日が重なり、結局、高等師範のほうを受けることにしました。(2/10)