神田外語グループのいしずえを築いてきた人々

第7回 佐々木輝雄氏『理想の英語教育を求めて』

昭和62(1987)年に開学した神田外語大学は初代学長として英語教育の大家である小川芳男氏を迎えました。小川学長は各方面から人材を集め、理想とする英語教育を実現する準備をしていきました。教授職の候補者に大学での指導経験のない人物がいました。佐々木輝雄氏です。佐々木氏は、小学校から高校で教員を経験するとともに、千葉県教育庁と文部省で英語教育の改革にあたってきました。神田外語大学の草創期を支えた人物の物語です。

昭和59(1984)年のことですが、私の名前が英字新聞の『ジャパンタイムズ』に載りました。当時、私は文部省で中学校と高校の英語教育の指導法についての改革を手がけていました。外国人による英語指導の先駆けとなる制度づくりに参加していたのですが、そのメンバーのひとりが『ジャパンタイムズ』に記事を寄稿し、私のことに触れたのです。

「佐々木は『ミスター・ドラスティック・チェンジ』と呼ばれることを好んだ。なぜなら、彼は日本の英語教育においてドラスティックな変化が必要であると信じているからだ」

読んで訳す勉強法が中心だった時代に、英語で授業を行うことや、コミュニケーションも含めた総合的な指導、そして背景としての国際理解や異文化理解が必要だと主張し続けました。よほど珍しかったのでしょう。だから、ミスター・ドラスティック・チェンジと言われた。私も、『英語教育のDrastic changeを求めて』なんて本を共著で出版したぐらいでしたからね。(※1)

私は、小学校、中学校、高校の教員、そして千葉県教育庁や文部省での仕事などかなり幅広い職場を経験してきたのですが、どちらかと言えば型にはまらないタイプだった。文部省でもずいぶんと上司とぶつかりましたよ。だからこそ、小川芳男先生と出会い、神田外語大学の設立に誘っていただいた。小川先生も、理想の英語教育の実現に夢を抱き、ドラスティックな教育改革を行おうとしていましたからね。私自身は、文部省を退職後に神田外語大学で教えられたことで、英語教育との関わりを継続することができました。

私の異文化理解の源泉は幼少期の体験にあります。戦前のアメリカに父が渡ったときから神田外語大学への道のりは始まるのです。(1/10)

  1. 『英語教育のDrastic changeを求めて―高等学校外国語(英語)科指導事例集--教科書に則して-』【山口書店、昭和61(1986)年10月発行】
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写真撮影:塩澤秀樹
取材・文:山口剛

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