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50th Anniversary -Interviews-
浪人をしていたとき、私は国民学校(小学校)で代用教員として教えていました。卒業した中学校の校長に「佐々木、ぶらぶらしていると徴用されるぞ」と言われたのです。校長は役所にかけあってくれて、国民学校の教員の辞令を持ってきてくれた。教員が少ない時代だったから、雇ってもらえたのです。
東京高等師範学校には合格しました。英語を専攻する文科第3部です。代用教員の仕事が一段落した昭和20(1945)年7月に入学しました。すぐに学徒動員になって、杉並区の高円寺にあった陸軍気象部に配属されました。そこでは、気球を飛ばして、大気中の湿度や温度を計測して航空隊に報告したり、暗号の解読をしました。将校たちには「お前ら、敵国語など学んで恥ずかしくないのか!」と、ずいぶんいじめられました。
でも、その後すぐに敗戦です。暗号の解読をしていましたから、8月の10日頃にはポツダム宣言受諾が分かっていました。そして15日の玉音放送です。敗戦を知り、みな悔しがっていました。私たちをいじめた将校には、「これからはお前たちの時代だ」と言われました。複雑な気持ちでしたね。
終戦後、大学の授業が再開されましたが、校舎が焼けてしまったので、半年間は校舎での勉強、半年間は教育実習ということになりました。だから、私たちは大学時代に1年半も教育実習をしたのです。千葉の地元の中学校に行って実習をしていたのですが、校長先生が同じ村の出身の方で、私を非常勤講師として雇ってくれたのです。ですから大学の附属学校での教育実習は抜群の評価でしたよ。だって、お給料をもらいながら教えていたんですから。
大学卒業後は、まず中学校で教えました。1年すると、高校の英語教員が社会問題になるほど足らなくなり、高校の教員になりました。県立長生第二高等学校に赴任しました(※4)。教務部長や学年主任を経験して高い評価を得ましたが、年配の先生方からはいじめられた。それでも、この高校で教え続けるつもりだったのですが、校長に「君はこんな田舎の高校にいてはいけない」と、15年働いた高校を追い出された。大学の先輩が千葉東高校の校長をしており、誘っていただいたので、そちらに行くことになりました。(3/10)