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50th Anniversary -Interviews-
中央大学には合格することができて、僕は新宿区の下落合にあった学生寮に入りました。ここは母校である武生高校の卒業生の方々が創設した学生寮。育英会を設立して、東京で学ぶ学生たちを支援してくれていた。OBには政財界の大物もいましたが、みなさんとても気さくで、寮に来ては、「おい、飯を食べに行こう」と誘ってくれました。僕は学生委員長をしていましたから、会社で社長をされている大先輩に寄付をいただきに行ったこともあります。そんな諸先輩方の指導もあって、昭和31(1956)年、僕は明治生命に入社することになりました。
明治生命に入り、最初の2年間は丸の内本社の勤務でした。昭和36(1961)年には京都支店の彦根営業所長になりましたが、東京へはよく出張していました。東京の街では、昭和39(1964)年の東京オリンピックに向けて、ものすごい勢いで開発が行われていました。上野駅の駅前にある上車坂の佐野家も、上野の池之端に引っ越していました。出張のときは、会社でホテルを用意してくれるのだけど、公一先生に連絡をすると、「どうだ、家に来て泊まらないか?」とおっしゃる。ホテルをキャンセルし、池之端のご自宅に伺うと、いつもは夜遅くまで出かけている公一先生がきちんと帰宅して待っていた。
それから延々と話をしました。終わるのは夜中の1時、2時。思えば学校を始めることを具体的に決めた時期で、公一先生は色々な構想を話してくれました。公一先生は、すでに事業家として成功を収めていたけれど、それはあくまで個人での仕事が中心だったから、大きな組織はあまりご存知なかった。一方で、学校を経営するとなると組織の運営ができなければならない。ですから、僕の勤めていた明治生命や三菱グループの様子などをお聞きになっていました。それと、松下やサントリーとか、関西のオーナー企業の経営についてよく質問されていました。
池之端の佐野家に泊まるのは、楽しみであり、一方では試験を受けているようでもありましたね。公一先生は鋭い人ですから、ごまかしがきかない。だから、ありのまましか通じない。意見を言わざるをえないときは、きちんと言う。それしかない。変に構えたりするのではなく正面からぶつかる。分からないときは、素直に分からないと言うしかない。「公一塾」は僕にとって貴重な体験でしたね。(3/11)