神田外語グループのいしずえを築いてきた人々

第8回 山岸秀豪佐野学園監事『受け継がれゆく創業の精神』

昭和44(1969)年に学校法人佐野学園が設立されて以来、監事として学校経営を厳しく見守られてきた山岸秀豪氏。佐野きく枝先生の親族にあたる山岸監事は、半世紀以上にわたり、佐野家の人々と接してこられました。組織での経営手法を学ぼうとした佐野公一先生。人の縁を引き寄せる力を持っていたきく枝先生。父との確執を乗り越えながら経営者として成長していった佐野隆治会長。礎を築く佐野学園を見つめてきた山岸監事にお話を聞きました。

僕は昭和6(1931)年に福井県の鯖江市で生まれました。佐野学園の第2代理事長である佐野きく枝先生は、僕の父といとこの間柄で、僕が小学生の低学年の頃からよく我が家に遊びにいらしていました。とても優しい方で、色々なことを教えていただいた。きく枝先生のことが大好きで、「帰らないで!」って、ダダをこねて、靴を隠してしまったこともある。まだ幼かったからね。

きく枝先生のご実家である黒田家と、我が山岸家のつながりが生まれたのは、明治の初期にさかのぼります。黒田家は鯖江の大地主で、田畑を回るのに籠(カゴ)が必要だったくらい広い土地を治めていた。明治10(1877)年に、当主である黒田金右衛門の次男が山岸家の養子となりました。私の祖父です。きく枝先生のお父様の弟ですね。

祖父の写真が残っています。明治34(1901)年に家督相続をしたときの写真だと思いますね。明治時代に鯖江なんて田舎で、なぜ写真が撮影できたのか?ふと気づいたのは、祖父の兄である、きく枝先生のお父様です。お父様は文明開化後に日本へ入ってきたばかりの写真に注目し、敦賀で写真館を興された。当時は相当の財力がなければ、写真業は営めなかったはずですよ。

その頃の日本は、日本海側に外交の拠点があり、敦賀もそのひとつでした。ウラジオストックと航路で結ばれていた敦賀は、外国の文化の入ってくる文明開化の街だったのです。その敦賀で写真館を営んでいたきく枝先生のお父様がいたからこそ、私の祖父の写真がきれいに残っているというわけです。

ただ、残念なことに鯖江の黒田家はなくなってしまった。きく枝先生は早くにお母様を亡くされて、ご兄弟も都会に出られたので、郷里を離れて、学校の先生をしながら病気を患っていたお父様の面倒をずっとみていたと聞いています。ご実家のないきく枝先生やご兄弟は鯖江に帰ってくるときは、いつも我が家を実家のようにして、泊まっていた。きく枝先生と僕の両親は、いとこの間柄でしたが、兄妹のように親しく付き会っていたのです。(1/11)

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写真撮影:塩澤秀樹
取材・文:山口剛

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