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50th Anniversary -Interviews-
昭和38(1963)年、セントラル米英語学院が設立されました。神田にあった予備校を買い取って、学校経営が始まったのです。僕は彦根にいたけれど、東京へ出張したときに、公一先生が学校を案内してくれました。公一先生は、「いずれ、新しいものを建てる。これは臨時だから、すぐに潰すんだ」と構想を語っておられました。翌年度には、学校名が神田外語学院に変更された。学校が軌道にのり、外で働いていた隆治会長も戻られて、事務局長として学校経営に参画されました。
今思えば、神田外語学院の創業者は、公一先生ときく枝先生のおふたりだったのでしょう。公一先生はとても緻密に考えますが、実際に行うのは、きく枝先生。まさに女房であって、仕事の上のパートナーでもある。ベターハーフであると思っていましたね。夫婦で共通の夢を持って、基礎を作ってきたから、後に公一先生がお亡くなりになられても、継続して取り組むことができた。それに、開学以来、実務面を仕切ってきたのは隆治会長だったから、公一先生なき後も母と子の二人三脚で学園を成長させることができたのです。
昭和39(1964)年、僕は東京勤務となり、池之端や銀座の所長を務めました。東京には5年ほどいて、昭和44(1969)年には福井支社に転勤となりました。この年、神田外語学院は、学校法人佐野学園となります。法人化にともない、僕は監事に就任した。公一先生からは、ずいぶんと以前から『おまえは役員にしてやるから頼むぞ』と言われていました。
今思えば、監事という役職だったからこそ、これだけ長い間、佐野学園と関わり続けてこられたのでしょう。理事であれば当事者ですから、また違う関係になる。監事は外部にいながら、理事長および理事の業務執行および財務、経理関係の適正化を監視する役目です。だから、時には嫌なことも言わなければならない。でも、それが僕と佐野学園、そして歴代の理事長とのよい距離感だったのかもしれません。
佐野公一先生と僕は相性がよかったんですね。田舎から出てきて、心細かったときに大学の下見に連れていってくれた温かさが僕の中にはずっとあった。怖いけれど非常に温かみのある人だった。優しさを感じることができたから、怒られてもまた平気でお付き合いができたのでしょう。(5/11)