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50th Anniversary -Interviews-
公一は愛国心の強い男だった。もし、アメリカ軍が上陸したら、戦おうと短剣を用意していた。終戦のすぐ後に行われた選挙にも立候補した。あえなく落選したが、国を想うからこその行為だった。
公一は戦争を通じて、外国語教育の必要性を痛感した。雑誌『文藝春秋』に掲載された評論家の草柳大蔵との対談で、公一はこう語っている。
「外国語が必要だと痛切に感じたのは太平洋戦争の時からですね」「あの時の外務大臣松岡洋右がもっと語学がたんのう(堪能)で、外国の国情に明るかったら、我々にもっと有利な結果が出たのではないかと思えたのです」「人間社会は人と人の和ですからね。まず話し合って、相手のことをよく知る。それには言葉ですよ。世界の中の日本として考え、国際人として立たなければ日本の将来はない、とまあこう考えたわけですよ」(※1)
終戦後、営業を再開した佐野商店は、クワやスキを作り、売った。焼け野原の土地を片付ける人々は道具を必要としていた。その次は鍋や釜。住まいが確保できれば、煮炊きの道具を求める。ライターなどを輸出する貿易業へも事業を広げた。公一は、世の中が求めるものを察知し、提供する才に長けていたのだ。
昭和25(1950)年頃になると、公一は新たな事業を始める。喫茶店だ。この時期、コーヒー豆の輸入が再開され、戦後の喫茶業が本格化していく。貿易業を営んでいた公一はその先駆けをいこうとした。佐野商店を改築し、「千代田苑」を開店した。店を切り盛りしたのはきく枝と隆治。高校生になった隆治は夏休みに先輩の働く浅草の喫茶店でバイトをして技を身につけた。公一はいつも号令をかけるだけで、きく枝や家族が段取りを組むのが常だったという。
写真上:神田外語大学1号館エントランス
にある佐野公一先生の胸像
(撮影:塩澤秀樹)
写真下:昭和37年と思われる上野・上車
坂町の住居地図。太字の「坂」の文字の
下に「喫茶苑」と表示されている。
(『東京都全住宅案内図千代帳』、
住宅協会、発行年不明より)
千代田苑は、上野の1号店を皮切りに、入谷、神田へと店舗を出していく。神田店を仕切っていたのは、慶應義塾大学に入学した隆治であった。(2/7)