神田外語グループのいしずえを築いてきた人々

第19回 佐野公一 神田外語学院初代学院長『日本を想い、人づくりに懸ける』

大学設立にかけた情熱と
幕張の地に残された意志

公一は、大学設立に向けて、教育機関としての神田外語学院の存在感を示すために、神田外語学院での教育研究の成果を次々と公表し始めた。昭和50年にはフランスのマルセイユで開かれた世界学術会議で、CAIについての発表。昭和50年から52年にかけては、『東京都専修学校各種学校協会研究紀要』で、学院が巨額を投じて構築してきた独自の教育法を論文として次々と発表していった。

そして、昭和52年から53年にかけて、オピニオン誌である『文藝春秋』『中央公論』の誌面で評論家や研究者と対談を行った。どちらもPR記事である。自らがメディアに登場し、知識人たちと対談をすることで神田外語学院の存在を世にも強く示したい。ふたつの記事からは、公一のそんな強い意志が感じられる。

大学設置に向けて独自に調査を始めていた佐野隆治は、千葉県企業庁が幕張の埋立地に教育機関を招致する計画を知った。昭和53(1978)年10月3日、公一は、きく枝と隆治とともに現地を視察した。葦の茂る湿地を目の前に、公一は、「ここに大学を建てるんだ」と言った。だが、その場で体調を崩し、緊急入院。10月18日に息を引き取った。

前出の雑誌『中央公論』が出版されたのは、公一の死のわずか1カ月前だった。 公一は、日本の社会全体が政治的な議論ばかりに偏り、教育の根源的なものが忘れられてしまっていると指摘したうえで、自らの決意を述べている。

「私は国の教育方針がどうあろうと、私どもの学校だけは、これが教育なんだ、というようなものを追求していきたいと考えています」(※6)(7/7)

写真上:大学の用地を探していた時期の
佐野公一先生、きく枝先生。
(神田外語学院校友会『平和の礎』 より)
写真下:神田外語大学1号館エントランス
にある佐野公一先生の胸像
(撮影:塩澤秀樹)

佐野公一(さのこういち)
明治38(1905)年生まれ。中央大学法学部卒業。昭和10年代に「佐野商店」を興し、戦後は貿易や喫茶などの事業を手がけた。昭和32(1957)年に英会話学校を設立。神田外語学院初代学院長に就任し、同校を日本最大の外国語専門学校に育てあげた。昭和53(1978)年10月、逝去。享年73歳。晩年は大学設立に情熱を燃やし、「千葉港、成田空港、文化は海の岸辺から始まる」という言葉を遺した。  

  1. 「若者の“波長”をつかめ」P267
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写真撮影:塩澤秀樹
取材・文:山口剛

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