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50th Anniversary -Interviews-
昭和40年代の終わりになると、公一は英語の教育法を専門に学んだ外国人講師を大勢採用し始めた。欧米の大学に手紙で打診して、現地で面接を行う。公一は、教員に応募してきた外国人の顔を見て、誠実な人物かどうかを判断したうえで、履歴書を確認したという。学歴や業績よりも人間性を重視した。公一は採用後も、外国人講師を厳しく指導した。水野五行前学院長はこう回想する。
「公一先生は、厳しい方でした。外国人教員に対してもお構いなしです。長い髪をボサボサにしている教員がいれば、髪をグイとつかんで、『ちゃんと束ねろ』とおっしゃる。控え室のロッカーが半開きになっていれば、『こういうのは日本じゃ「アホの三寸開き」って言うんだ』とおっしゃった」
公一には外国語を教えるだけでなく、「人を育てたい」という強い想いがあった。前出の文藝春秋の記事で、学生たちへの教育について、公一はこう語っている。
「言葉は人格を表しますね。人格のともなわない言葉は不愉快ですよ。わたしは学生に、外国語を習うには、ただサル真似ではダメですよ、人格をみがくことを第一として、言葉の勉強しなさいといっているんです」(※3)
憧れの職業のスキルと使える英語を学ぶ魅力的なカリキュラム。外国人講師が教える生きた英語。CAI(Computer Assisted Instruction)など、先端の機器を導入した教育設備。そして、学力の評価は厳格で、マナーにも厳しい教育方針。神田外語学院の教育は評判を呼び、学生数はうなぎ登りに増えていった。最盛期には昼間、夜間を合わせ約6,600人にまで上った。
写真上:神田外語学院ではネイティブ教員
を採用するとともに、最新機器を導入した
設備を整えた。
写真下:学生数は最盛期には6000人
以上を数えた。(ともに「若者の“波長”をつ
かめ」『季刊中央 公論経営問題秋季号』、
中央公論社、昭和53年9月号より)
昭和51(1976)年1月、専修学校法が施行された。高等学校を卒業した者が、職業に必要な専門課程を学ぶための専門学校が認められたのだ。神田外語学院はいち早く認可を得た。だが、公一はこの時期から大学設立を主張し始めた。専門学校として成功していたのに、なぜ大学を創りたかったのだろうか。(5/7)