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50th Anniversary -Interviews-
前出の文藝春秋の記事には「昭和32年 セントラル英会話学校開設」とある。この年、公一は何らかのかたちで外国語教育に乗り出したようだ。敗戦から12年。戦時中、日本という国を守るためには外国人と対等に渡り合う必要があると痛感していた公一は、ついに外国語教育に乗り出した。52歳だった。
事業では成功を収めてきた公一だったが、学校経営の経験はなかった。手探りの時期が続いた。きく枝の親戚に、後に佐野学園の監事を務める山岸秀豪がいた。山岸は公一の母校である中央大学を卒業後、明治生命に入社。東京勤務を経て、関西へ転勤したが、出張で東京に来るたびに上野・池之端にある佐野家に泊まった。公一は自分の子と同じくらい歳の離れた山岸の話を熱心に聞いた。
「公一先生は、すでに事業家として成功を収めていたけれど、それはあくまで個人での仕事が中心だったから、大きな組織はあまりご存知なかった。一方で、学校を経営するとなると組織の運営ができなければならない。ですから、僕の勤めていた明治生命や三菱グループの様子などをお聞きになっていました」
公一の学校経営は、神田の「千代田予備校」から始まった。この予備校は、東京大学の学生が受験指導を行う「東大文化指導会」のメンバーが主だったが、中心的な講師が駿台予備校に移ってしまった(※2)。神田で喫茶店を営んでいた公一は何かの縁でその予備校を引き継いだ。学校では受験クラスを残しながら、英会話クラスを設けた。後に神田外語大学教授となる池田弘一は、この予備校の講師として校長の佐野公一に出会った。昭和37(1962)年のことだ。
写真上:昭和46年の海外研修の壮行式。
神田外語は海外留学にも積極的に取り組
んだ。(神田外語学院校友会『平和の礎』
より)写真下:草柳大蔵氏と対談する佐野
公一先生。(「大蔵トップ対談 私はこう
やる神田外語学院」『文藝春秋』、
文藝春秋、昭和52年3月号より)
「最初の頃は、何しろ学生がいなかった。あるとき、ちょっと早く学校に着くとシャッターが開いていない。すると、公一先生がいらっしゃって、鍵を開けてくださった。始まる時間になっても生徒は誰も来ない。公一先生は『もう少し待っててやってくれませんか。きっと来ますから』とおっしゃるんです。あの方は顔つきが怖くって、みんな怖がっていたけど、本当は優しかった」(3/7)