神田外語グループのいしずえを築いてきた人々

第19回 佐野公一 神田外語学院初代学院長『日本を想い、人づくりに懸ける』

私財を投じ、学校法人を設立
名前を変え、公人となる決意をした

昭和38(1963)年になり、公一は校舎の拡大を図った。神田駅北口に地下1階、地上4階の校舎を完成させた。翌年に東京オリンピックの開催を控え、ちまたでは英会話ブームが起きていた。教室数を増やし、生徒を大勢募集するというスケール感のある学校経営の始まりである。慶應大学を中退後、自活をしていた隆治も学校経営に参画。昭和39(1964)年、学校名を神田外語学院に改称する。若い学校だが、伝統的なイメージを含ませたいという隆治の提案だった。

この年、公一はヨーロッパに視察旅行に出かける。ドイツでは実務教育に関する研究会に参加した。昭和42(1967)年にはカナダのブリティッシュコロンビア大学の外国語教育研究会に出席。北米の教育を視察した。

昭和44(1969)年、公一は大きな決断をする。それまでいわゆる私塾だった神田外語学院を学校法人にしたのである。街の英会話教室を正式な学校にしたのだ。その決断には、当時事務長を務めていた隆治も驚いた。

「数年前から親父は『学校は学校法人にしたほうがいい』と言うようになっていた。振り返ってみると、あのときの親父は偉かったと思います。学校法人にするってことは財産を国に寄付するのと同じことです。もう、学校が個人のものではなくなるんですよ。普通は個人塾で儲けていたら、寄付なんかしないですよ。それも全財産を投げ打った。僕だったら踏み切れたか分からないですね」

そして、公一は学校法人化を機に名前を変えた。実は、佐野公一の本名は、「和一(わいち)」であった。学校法人を運営する自分を「公人」として定義するべく、その後の通り名を「公一」にしたのである。

写真上:神田外語学院昭和44年度
卒業式(佐藤武揚氏提供)
写真下:コンピュータによる英語学習
システム「CAI」は約5年の歳月をかけて
開発した。(「若者の“波長”をつかめ」
『季刊中央公論 経営問題秋季号』、
中央公論社 昭和53年9月号より)

同じ年、地上7階、地下1階の本館が完成した。視聴覚施設を完備する新校舎は800人が学べる大規模なもの。だが、従来の英文秘書科と実務英語科だけでは教室は埋らない。後にキャリアカレッジの校長となる佐藤武揚が企業のニーズを調べ、国際ガイド科や国際ホテル科、スチュワーデス科などの新学科を開設した。語学教育と職業訓練を融合する新しい学びを提示したのである。(4/7) 

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写真撮影:塩澤秀樹
取材・文:山口剛

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