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50th Anniversary -Interviews-
神田外語学院の創立者、佐野公一先生は、日本の若者たちが世界と渡り合う能力を引き出したいという信念のもと、学院を日本最大の外国語の専門学校にまで育て上げました。本サイトの証言、そして生前に公一先生が語った雑誌記事の言葉に、その人生を探っていきます。(構成・文:山口剛/文中敬称略)
明治38(1905)年、佐野公一は静岡県富士郡稲子村で生まれた。現在の富士宮市である。富士川に注ぐ稲子川沿いに位置する山間の村落で、川沿いの急峻な山肌に棚田が拓かれていた。公一の家は屋号を「新家(にいや)」と言った。分家である。兄弟は8人。農家の暮らしは決して豊かではなかった。
公一は家業を手伝った後、上京して中央大学法学部に入学した。中央大学は大正12(1923)年9月の関東大震災によって神田錦町の校舎を消失。昭和元(1926)年8月に現在の駿河台に移転した。公一が18歳から21歳の時期に重なる。若き日の公一は震災から復興する東京で法学を学んでいた。
苦学生だった公一は法律家にはならず、実業家の道を選んだ。昭和6(1931)年、26歳で黒田きく枝と結婚し、一男三女に恵まれた。きく枝は、福井県鯖江市の出身で東京で小学校の教員をしていた。昭和9(1934)年生まれの長男であり、後に両親の跡を継ぎ佐野学園の理事長となる佐野隆治は、幼い頃、父が洋服屋の外商をしていたと証言している。一家は駿河台に住んでいた。
昭和10年代半ば、隆治が尋常小学校に入った頃、家族は上野の上車坂(現在の上野7丁目)へと引っ越した。30代前半の公一は、独立して「佐野商店」を興したのだ。佐野商店は、足立区の西新井に鉄工所を持ち、航空機メーカーの萱場(かやば)製作所に機械部品を納めていた。
写真上:撮影:秋山庄太郎
写真下:雑誌 『文藝春秋』に登場した
佐野公一先生。(「大蔵トップ対談
私はこうやる神田外語学院」『文藝春秋』、
文藝春秋、昭和52年3月号より)
昭和19(1944)年の後半から戦況が悪化し、東京への空襲も度重なるようになった。子どもたちは地方に集団疎開した。昭和20(1945)年3月10日未明、東京上空に飛来したB29が下町を焼き尽くす大空襲で、一晩でおよそ10万人が亡くなった。佐野商店があった上野駅周辺は奇跡的に焼け残った。
昭和20年8月15日正午、公一はきく枝とともに日本の敗戦を告げる玉音放送を聞いた。(1/7)