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当時、神田外語大学の定員数は4学年合わせて、英米語学科が約800人、スペイン語学科が約80人、中国語約240人、韓国語が約80人でした(※11)。英米語学科の学生だけが多いのは大学としてバランスがとても悪い。英語以外の広い関心をもった学生を吸収し、教育したいという思いから、「国際コミュニケーション学科」の設置が進められました。
もうひとつは「国際言語文化学科」です。東南アジア3言語(ベトナム語、インドネシア語、タイ語)とブラジルポルトガル語です。国際言語文化学科では、これらの言語を専攻として学びつつ、英語も重要視する2言語専攻という特徴がありました。「ダブルメジャー」ともいうべきカリキュラムであり、今では同様のカリキュラムを導入している大学が増えましたが、これも当時は珍しかったのです。
国際コミュニケーション学科、国際言語文化学科は平成13(2001)年4月に設置されました。これらの学科新設によって、神田外語大学は、「大学らしく」なったと思います。それまでは周囲から「英語だけ教えている大学」と思われていましたが、そこから脱却する第一歩でした。新学科設置で神田外語大学は自らの個性を打ち出せたのです。
平成14(2002)年4月、僕は副学長に任命されました。仕事としては、教員側のマネジメントです。当時はもうひとり、教員の副学長がいて、寺田美奈子先生が務めていらっしゃいました(※12)。寺田先生は学生生活に関する業務を担当されていました。
僕と寺田先生は副学長同士でよく話をしましたね。当時は今以上に、それぞれの学科の先生方が自分たちの殻に閉じこもって、学科の立場から物を考える傾向が強かった。学科の枠を超えて、大学全体の立場から「こういう風にしていただきたい」と説得するのが我々副学長の大きな仕事でした。
僕は副学長の後、平成16(2004)年から企画調整主幹を務めて、平成22(2010)年にふたたび副学長に任命されました。教員のマネジメントという業務の内容は同じです。ただ、学長の個性や方針によって仕事の内容は変化します。
平成10(1998)年から学長を務められた石井米雄先生は地域研究や言語学で優れた業績を残された方です。学長の任期途中でしたが、平成16(2004)年に設立された人間文化研究機構の初代研究機構長に抜擢されました。国立歴史民俗博物館や国立国語研究所などの上部組織のトップです。言わば、大学の学長のさらにその上のポジションです。(6/8)