神田外語グループのいしずえを築いてきた人々

第5回 河村幹夫ブリティッシュヒルズ初代館長『外国人との交流は文化理解から始まる』

文化を命がけで伝える館長がいなければ、
「本物の疑似体験」は成立しない

大学新設を成し遂げた後に、佐野隆治が着手したのが前述の国際研修施設の設立である。佐野は国内各地の候補地を訪れているうちに、福島県の羽鳥湖高原の17万坪の土地と出合った。見渡す限り森が続く高原の頂上であれば、外国のスケール感と日本の日常から切り離した環境が実現できると確信したのである。

土地の次は建物などのハード面である。佐野には、外国への抵抗感をなくすには、日本国内で外国生活の疑似体験をすることが有効だという持論があった。欧米諸国に出張しながら各国の建物を視察し、英語の母国であるイギリスの環境を再現することに決めた。中世英国の村をつくるコンセプトを立て、イギリスの設計会社に、時代考証から景観、建物の設計に至るまでを依頼した。建物に使われるオーク材、建具、調度品は、すべてイギリスから取り寄せることにした。

佐野が徹底的にこだわったのは、「本物の疑似体験」だった。料理ではフランスの調理学校「ル・コルドン・ブルー」にシェフの派遣を要請。イギリスの正式なマナーに通じたバトラー(執事)やプロトコル・オフィサー(儀典官)を筆頭に、サービススタッフも外国人で固めることになった。しかし、ひとつだけ空席があった。館長である。環境や建物の意味を理解し、外国人スタッフを束ね、日本の若者たちに外国文化を命がけで伝えようとする日本人の館長がいなければ、「本物の疑似体験」は成立しないのである。

適任者を探すために、さまざまなネットワークを駆使していた佐野のもとにある人物の名前が挙がってきた。川田雄基。三菱商事に勤める商社マンである。川田はイギリスと縁の深い人物だった。

川田雄基の曾祖父は川田小一郎。土佐藩の武士で、事務方として幕末の藩財政改革に手腕を振るった。明治維新後は同じ土佐藩の岩崎弥太郎が興した九十九商会(後の三菱商会)に参画。黎明期の三菱や明治前期の政財界の発展に寄与し、明治28(1895)年には男爵に叙せられたのである。息子の川田龍吉はイギリスのグラスゴーに留学し、最先端の造船技術を学び、横浜ドックの建設や函館ドックの再建を任された人物だ。ちなみに、北海道の貧農の生活を改善するために後に「男爵イモ」と呼ばれるジャガイモの品種を持ち込んだのも龍吉である。

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写真撮影:塩澤秀樹
取材・文:山口剛

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